ショパンの指先
「洵はどこ? 家に行ったら何もなくて……」

 なんだか上手く言葉が出てこない。自分の気持ちがまだ整理できていない上に、この状況を把握できていない。どう説明して何を聞けばいいのか、頭が混乱して狼狽えながら言葉を発した。手は無意味にジェスチャーを繰り返している。

 遠子さんが私を見据えたままゆっくりと立ち上がり、一歩一歩私に近付いてきた。口を真一文字に結び、瞳は私を捉えたまま離さない。近くで改めて見ると、とても綺麗な顔をしていると思った。それに加えて大人の色気と年輪を感じさせる風格まである。私は思わず、たじろぎそうになった。

 高い大きな音が店内に響いた。私は気が付いたら顔を横に向けていて、一瞬何が起こったのか分からなかった。頬がヒリヒリと痛み出したので、平手打ちされたのだと気付いた。昨日有村にぶたれた方の頬だったので、痛みは倍増で襲ってきた。

「あなたのせいよ! あなたのせいで洵はいなくなった。せっかくショパンコンクールに出場できそうだったのに、あなたのせいで洵は出られなくなった! あなたが洵からピアノを奪ったのよ!」

「どういう……こと?」

 私はどんどん熱を持ち腫れていく頬を手の平で押さえて、目を泳がせた。優馬がおもむろに立ち上がる。

「昨日洵が珍しく無断欠席して、おかしいなと思って携帯に何度もかけても繋がらなかった。そしたら今朝、退職願が店に置いてあったのよ」

「私の元にも昼間、ポストに手紙が入っていた。散々お世話になったのに、すみませんって、今までかかったお金は必ず返しますからって……」

 遠子さんはポロポロ涙を零しながら言った。遠子さんが泣くから、私は泣けなくなった。目の前で人が泣いていると、どうしてだか私は昔から泣けなくなるのだ。

「どこに行ったのか誰も分からないの?」
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