ショパンの指先
 洵の言葉は、プロポーズのように聞こえた。胸が詰まり、涙が溢れてきた。

 大好きな洵。私の一生をかけて付いていきたいと思える。もうこれ以上、誰かを好きになることなんてできない。一生分の愛を捧げた男。

「……行けないわ、洵」

 涙の雫は鼻の脇を通って、唇の中に消えていった。

「どうして」

 洵は私の返答に、心底驚いている様子だった。私だって驚いている。まさか私が、洵の申し出を断るなんて。いつも楽な方、楽しい方ばかり流れていって、理性なんて無視し続けてきた私が。洵のためなら、死ねるくらい好きなのに。大好きなのに。

「私はね、白馬の王子様を求めているわけじゃないの」

 洵は不思議そうな顔をして私の話を聞いている。私は涙を流しながら言葉を続けた。

「辛い状況から救い出して、白馬の後ろに乗せて立派なお城に連れていってくれる王子様をずっと待っていたわけじゃない。私はね、洵。私は、共に肩を並べて歩いて行けるパートナーが欲しいの。今の私は、胸を張って洵の隣を歩くことができない。守られるような存在にはなりたくないの。お互い支え合える、そんな関係になりたい。だから、一緒についていくことはできない」

「そんなに大げさに考えなくていい。俺は杏樹が側にいてくれればそれで……」

「でも洵は、一人になることを選んだじゃない。洵を責めているわけじゃないのよ。私は私を責めているの。洵にとって私は、守らなければいけない存在だった。そうよね、お互い経済的に自立できてなかったし、あの時二人で夜逃げしたって、生活することで精一杯で、洵はピアノに集中することができなかった。だから洵は、私に何も言わず出て行ったのよね。洵がいなくなって分かったの。私も洵のお母さんや遠子さんと同じだった。愛によって洵を束縛する、洵の自由を奪う存在だって。洵は変わった。とても素敵に変わったわ。でも私は、何も変わってない。この数か月間で、甘ったれの性格が直るわけでもなければ、経済的に自立しているとは、とてもじゃないけど言い難い。私は洵の隣を歩けない。私は洵に相応しい女じゃない」
< 174 / 223 >

この作品をシェア

pagetop