ショパンの指先
そしてスポットライトがステージ脇に移動すると、会場内は大きな拍手で包まれた。ステージ脇から登場したのは、細みのブラックスーツを嫌味なくらい精悍に着こなしたピアニスト・桐谷洵の姿だった。

 座っていて良かったと思う。そうでなければ、私は腰がくだけて床に座り込んでしまったかもしれない。

洵の横顔は、相変わらず洵そのもので、遠くからでもはっきり洵だと分かるくらい、雰囲気も何もかもあの頃のままだ。大きな会場で満席に埋め尽くされた観客たちを見ても、洵の威風堂々とした様は変わらない。

割れんばかりの大きな拍手に包まれても、恐縮することなく、全ての拍手と声援を自らに取り込み糧とするような威勢の良さが感じられた。洵は洵のままだけれど、しっかりと成長した様が見て取れた。洵と最後に会った時も一皮剥けて大人になっていたけれど、今は更に一皮も二皮も剥けているようだった。

 洵がグランドピアノの横に立ち、会場内をゆっくりと見渡した。私は慌てて背筋を丸め、前の人の頭に隠れた。こんなに遠くからだったら、私に気付くことはあり得ないだろうけれど、それでも反射的に隠れてしまった。隣に座っている優馬が、私の行動に気付いて少しだけ笑う。笑われた私は、耳を少し赤く染めながら、体勢を元に戻した。

 洵がお辞儀をすると、会場内は更に大きな拍手で包まれた。演奏する前からこの盛り上がり。洵の人気の高さを改めて目の当りにした気分だった。

 洵が椅子に座り、スーツの袖の位置を直すように両腕を垂直に上げた。そして、ゆっくりと洵の指先が鍵盤に吸い寄せられていく。すると会場内が一気にシンと静まり返った。独特の緊張感が辺りを包み込む。洵は一瞬にして会場の雰囲気を変えさせた。

 力強い音が鳴り響く。その一音を聴いただけで鳥肌が立った。

 曲目は『革命のエチュード』

 洵が好んでいつも最初に弾いていた曲だ。左手が波打つように速いパッセージを奏でながら、右手は叩きつけるような激しいフォルティッシモを刻む。息つく暇を与えないほど情熱的な革命のエチュードだった。

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