ショパンの指先
洵がバラード第3番を弾き終えると、心地よい風合いが部屋に残った。

「洵の演奏を聴いたら、悩んでいたのがバカらしくなっちゃった」
「杏樹でも悩むことあるのか?」
「失礼ね、私だってたまにはあるわよ」

 洵はふ~ん、と軽いような感じで生返事した。

「何かあったのか?」って心配そうに顔を覗き込んで、何も聞かずに手を引っ張って部屋に連れてきてくれたのに、わざと憎まれ口を叩くなんて。白々しいというか、素直じゃないというか。こういう所、確かに私と似ているかもしれない。

「明日からまたアマービレに行こうかな」

 ボソっと呟くと、洵は怪訝な表情で、私を見下ろした。

「店にはしばらく来ない方がいい」
「どうして?」
「ここ最近、杏樹のことを嗅ぎ回っている男が頻繁に店に出入りしている」
「え……」

 私は背中に冷たい水が伝うような、ゾッとする寒気を感じた。

「どんな男?」

 私は目を泳がせながら尋ねた。胸が大きくゆっくりとドクッドクッと鳴っていた。

「中年太りの、眼鏡かけた眼光がやけに鋭いおっさんだった」

 ……やっぱり。有村は人を雇って詮索していた。

「その男、どんなことを嗅ぎ回っているの?」

「店長に杏樹の写真見せて、杏樹がここでどんな様子で飲んでいたか聞いていたらしい。杏樹が来店したら教えてほしいとも言っていたって」

「なにそれ。それじゃまるで私が犯罪者みたいに思われるじゃない」

 私が憤ると、洵はその怒りはもっともだと言いたげに頷いた。
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