絶え間ない心変わり
 話の雲行きがおかしくなった。
 河岸さんに恋愛相談を持ちかけ、相手の反応を窺うはずだった。
 なのに、思いがけず聡太が私を好きなんじゃないか説が飛び出して動揺してしまった。
(聡太がいたら“これだから恋愛経験の浅い人間はダメなんなんだよ“って言いそう)
 彼の指示で動いていたせいで、聡太の頭の中で予測変換する言葉が彼の声になる。
 これはあまりいい状態とは言えないのではないか。本能的にそう感じた。

「あの、すみません。今日は……もう帰ります」
「え? 俺、変なこと言った?」
「いえ。そうじゃないんですけど」
(これは、私の力量を超えたことをした罰だ)

 そう思い、私は多めのお金を置いて席を立った。すると、河岸さんはそれを押し返して言った。

「これはいいよ。ていうか、せっかくだから気分を変えて酒のないところ行こうか」
「と言いますと」
「カフェとか、そういう……あ、別に警戒されるようなところじゃないから安心して」
「思ってませんよ」
「どうかな。亜世さんは俺がすぐ手を出す男だって思ってるみたいだから」
(まあ、それは否めないけど)

 でもいつもはクールな河岸さんが、今は本当に私を心配してくれているように見えた。

(自分から誘ったのだし、ここで帰るのは失礼すぎるよね)
「じゃあ少しだけ」

 というわけで、私は不安がありながらも彼の提案に乗ることにした。

 *

 移動した先は、あるビルの最上階——夜景の見える広いフロアだった。
 中央にピアノが置いてあって、誰もが自由に弾けるようになっている。

(確かにここなら落ち着いて話ができそう)

 バーが思ったより狭い場所だったから、ここみたいにワンフロアがだだっ広くなった場所は安心できた。

「いい場所でしょ」
「はい」

 ここに来た理由も忘れて、私は外に広がる眩いばかりの夜景にワクワクしながら視線を向けた。

「ネオンが綺麗。夜景なんて久しぶりに見ました」
「俺も何年ぶりかできたよ」

 言いながら、河岸さんも満足げに景色に目を向けている。

(もっとドキドキするかと思ったのに、素の自分でいても案外普通にしていられるんだな)

 頼りになるお兄さん的な感じがしないでもない。
 本当に自分が聡太のことで恋愛相談をしに来たような気分になってくる。

(お酒も飲んだし、ちょっと判断がおかしくなってるのかな)

 一通り夜景を見た後、私たちはあったかいカフェオレを買って腰を下ろした。
 私はお砂糖を増量したから、それは缶コーヒーのような甘さだ。思考で疲れた脳にはとても効く。

「ところで……」
 話し始めた河岸さんに視線を送られ、反射的に肩が跳ねた。
「ああ、話したくないなら別に黙っててもいいんですよ」
「……すみません」
「謝ることじゃないでしょ」
 河岸さんは困ったように息を吐いて、ブラックコーヒーをすすった。
(私は誰の相談をしてるんだっけ)
 ごちゃごちゃの頭を整理していると、河岸さんがボソリと言う。
「そんなに悩んでるなら、もう告白しちゃえばいいんじゃないですか」
「えっ、告白?」
「だって、相手が亜世さんを好きなのは決定してるようだし、もう自分から告白すればいいだけじゃないですか」
「無理ですよ‼︎」
(聡太に告白なんてできるわけない! ……ってあれ、なんで聡太に?)
 私は今、河岸さんに河岸さんのことを相談しているのだ。
 だから告白するとしたら、相手は河岸さんなのだ。
 
 コーヒーをゴクリと飲んでから、改めて彼を見つめる。
 シュッとした体型に切長の目がいかにも涼しげで魅力的だ。
 どこか憂いを帯びたような空気も、やっぱりセクシーで素敵だ。
 ただ、なんというんだろう。
 触れたいとか、帰ってほしくないとか、そういう感情は今の段階では湧いてない。
 
 恋愛って、もっと痛みとか苦しさが伴うものではなかった?
 そもそも私はそういう痛みのある恋愛をしたことがあった?
 傷つくのが怖すぎて最初から演技で河岸さんと関わったせいなのか、自分の感情がわからなくなってしまった。

「告白は……しません」
「どうして」
「理由はわかんないですけど。私、恋愛に向いてないのかもしれないです」

(傷つきたくない。できれば相手のいいところだけ見て、付き合ったら素敵だろうなっていう夢をずっと見ていたい)

 こんな本音が浮かんできて、私はやっぱり聡太のアドバイスなしでは河岸さんと対等になることなんかできないんだと思い知った。
 気まずそうに俯いた私を見て、河岸さんはまた深いため息をついた。

(河岸さんとのお使いは、私には難しすぎたんだ。せっかく聡太がお膳立てしてくれたものが、全部崩れていく)

 諦めに近い気持ちでいると、彼は徐に私に飲みかけのカップを手渡してピアノの方へと歩いていく。

「久しぶりに弾くから上手じゃないけど」
「へ?」

 彼はピアノの前に座ると、姿勢を正してからおもむろに鍵盤を叩き始めた。
 慌てて私も彼の隣まで駆け寄って、鍵盤を覗き込む。
(聴いたことある)
 それはショパンの名曲の一つだった。
「別れの曲、ですか?」
「そう」
 上手じゃないと言いながらも、指は滑らかに鍵盤の上を踊っている。そして彼のピアノの色はフロア全体の空気を完全に支配していた。
(すご……)
 言葉と同じで、河岸さんが弾くピアノは繊細で美しかった。
(素人にしては上手すぎる)
 安穏とライター生活をしているように見えて、突然のこの特技。
 ただものではない、という感じが伝わってくる。
 そしてその理由はすぐにわかった。
 会場の拍手を受けてお辞儀をし、河岸さんは飄々とした顔で席に戻ってくる。
 そして席についた途端、予想もつかないエピソードを語った。

「ハタチまで、ピアニストになるつもりだった」
「ピアニスト!」
(確かになれそうなくらい上手だったけど)
 驚きで自分の目が大きく開くのがわかる。
「あ、目指してたのは母親で。俺は途中まで彼女のレールの上を歩いていた人形だったっていうのが正確かな」
「お母様が……でも、諦めたんですか?」
「俺が音大をやめるって言って、大喧嘩になって、家出をして……それっきりだよ」
「家出してからお母様と会ってないってことですか」
「そうだね」
 彼特有のおどけたような表情を浮かべ、何事もなかったようにぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「俺のことはさておき、少しは気分変わった?」
「え? あ……」
(いきなりピアノ弾いたのって、私のためだったの?)

 改めてさっきまでの悩みを思い返してみると、急にどうにかなるような気持ちになっていた。 
 聡太を好きか、河岸さんを好きか、誰とも付き合っていない状態で悩むことでもない。好きだなとはっきり決まったら、その時こそ悩めばいいんじゃないだろうか。

「楽になりました」
「ならよかった」
 ははっと笑って、河岸さんは立ち上がる。
「亜世さんも元気になったことだし、帰りましょうか」
(私の悩みを軽くするためだけに、ここに連れてきてくれたんだ)

 河岸さんに化けの皮が剥がれることばかり気にして、彼がどんな気持ちで向き合ってくれていたのか考える余裕がなかった。
 勝手すぎる自分が急に恥ずかしくなる。

「ごめんなさい。そして、ありがとうございます」
「えー……やっぱり調子狂うなあ。いつもの亜世さんどこ行っちゃったの」

 あまりに困惑されるから、試しに聞いてみた。いつもの亜世と、今の亜世、どっちがいいですか……って。
 すると——

「どっちがいいっていうのはないですけど、今日の方が自然だなとは思います。でも、いつもの亜世さんも嫌いじゃないですよ」
(うわ、さすがだ。私を絶対傷つけない言い方だ)

 女性がどっちがいいかと尋ねたら、どっちも否定しないのが正解なのだ。
 それを知っていて、さらりと自然に言葉に出せるということは、やっぱりこの人は女性に対して相当に慣れている。女性を怒らせない肝のようなものを知っているってことだ。

(はあ、これはモテるに決まってるよねえ)
「亜世さん?」
「ああ、はい。どっちの私も悪くないみたいで、よかったです」

 私も脱力しながらいつの間にか笑っていた。
 その様子を見て、河岸さんも少し安心したように見える。

「まあ強いて言うなら、もう少し警戒心解いてくれると嬉しいですけどね」
「それは……追々ですね」
(聡太と相談しながらじゃないとまだ不安だし)

 私がこんな面倒な形で自分にアピールしてるなんて知らない河岸さんは、気だるそうな笑顔で“気長に待ちます“とだけ言った。
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