怪物公女の母でしたが、子煩悩な竜人皇子様と契約再婚致します

28 不確かな約束


 魔獣が棲む『ロクサーナの森』は、帝国建国よりも遥か昔から存在しており、長い歴史の中で人々はその脅威に晒されてきた。

 古い文献によると古代帝国の皇帝が、領土拡大の為魔獣の森を焼き払おうと試みた事が記されている。

 ところがこの森の木々は松明を押し当てても焼き払う事が叶わず、幹に絡みつく蔦は針の様な棘が並び、剣で絶ち切ろうとすれば、切り口から黒い瘴気が溢れ出す。

 森の異常な生命力の前に、帝国は何度も敗れた。

 この事からロクサーナの森は別名『人喰いの森』と呼ばれ、恐れられているのだ。

 魔力を持つ魔獣の死骸や流れ落ちた血が大地に染み渡り成長を遂げたこの森に近づく者は、今では他国から流れて来た賞金目当ての冒険者以外いない。

 ***

 ――その魔獣の森に一番近い村の宿屋で、テオドールは出立の支度を整えていた。

 まだ陽が昇りきらぬ薄明りの宿屋の外では討伐隊の馬蹄の音が響き始めている。

 粗末な床が歩く度に軋み、壁にはかつての冒険者が残していった傷や、刻み込みが無数に走る宿屋の一室。

 テオドールは、机に広げた地図と装備を確認し、魔晶石の淡い光を掌で確かめていた。

 無駄のない慣れた動作で肩当てを締め、手袋をはめていく。
 鎧の金具が擦れる低い音と、鞘に納められた剣の重み。

 これまで、何度皇帝からの「任務」に応えてきたのだろう。

 「だが……。理不尽な命令に応えるのは、これで最後だ」

 テオドールが低く呟いたその時――。

 空気が震え、部屋の中央に眩しい光が放たれる。

 次の瞬間、転異魔法の魔法陣が床に浮かび上がり、長身の蒼く長い髪の男が姿を現した。

 「――この私を欺けるとでも?」

 ルイスは眼鏡をカチャリと掛け直し、テオドールをじっと見つめている。

 「これまで以上に理不尽極まりない命令に従順に応じられるとは……。流石は殿下ですね」

 皮肉交じりのルイスの言葉に、テオドールは視線を上げた。

 「――マリアンヌとエリーンを守る為だ。ルイス……。留守の間、お前にマリアンヌ達を託す。すぐにトリノ離宮に戻れ」

 その言葉にルイスの瞳は鋭く細まり、視線は机の上に広げられた地図を見下ろしながら静かに息を吐いた。

 「殿下……。これまでの戦争と比べて、どれ程危険な任務なのか分かっていらっしゃいますか? 魔獣を相手に竜人の魔力を解き放てば、マリアンヌ様から借り受けた魔晶石があったとしても……そのお姿を保てない可能性が!」

 「――その時は……皇帝に……」

 テオドールは短く目を伏せ、その後の言葉を飲み込む。

 その沈黙が、既に答えと同義である事をルイスは知っている。

 「はっ……! 敬服致しますよ。殿下……」

 その声は氷の刃の様に冷え切っていた。

 「ご自身をどこまでも犠牲にされてまでもマリアンヌ様を守りたいとは……」

 ――部屋の中に沈黙が漂う。

 張り詰めた空気に、ルイスは深く息を吸い込むと、低く落ち着いた声で言葉を続けた。

 「私は……これまで幾度も戦地にお供し、殿下の背中をお守り致しました。その役目を私は誇りに思っていたのですが……」

 テオドールは黙ってルイスの言葉を真正面から受け止めている。

 「もう……今は違うのですね」

 ルイスの静かな声に抑えきれぬ怒りが滲んだ。

 「殿下は私に共に戦い、背を預ける事を望んでいない」

 その言葉はテオドールの胸を鋭く抉る。

 ルイスが傍にいたからこそ、安心して戦う事が出来た。
 この先、どの様な優れた騎士が現れたとしても、テオドールの背中はルイス以外預ける事は出来ない。

 ルイスは拳を握り締め、言葉を飲み込むと、やがて瞼を深く閉じ、息を吐いた。

 「――承知致しました。殿下にとっての何よりの弱点。それがマリアンヌ様とエリーンお嬢様であるならば……。この命を賭してお二人をお守りしましょう」

 「――ルイス……」

 テオドールの瞳が揺らぐ。

 「ただし……!」

 ルイスは一歩踏み出し、テオドールを真っ直ぐに見据えた。

 「必ず……殿下には戻って頂きます。約束して頂かなければ、この私が納得致しません」

 長い沈黙の後、テオドールは微笑みコクリと頷く。

 「当たり前だ……! 必ず帰る!」

 その言葉にルイスの握り締めていた拳はゆっくりと解けた。

 しかし、まだ胸の奥に沈殿した重苦しい怒りが消えた訳ではない。

 (必ずだと……? そう言って戻らず命を散らした騎士がどれ程いたか……)

 心の中の言葉は吐き出さず、ルイスもコクリと頷く。

 「では……殿下、どうかそのお言葉を……偽りになさらないで下さい」

 テオドールはルイスの心の中が痛いほど分かっていた。

 「あぁ……。約束だ」

 ――ルイスは深く一礼すると、背筋を正した。

 「――これよりトリノ離宮に戻ります。殿下、必ず……」

 最後まで言葉にはせずに唇を閉じたルイスの足元に、魔法陣が眩しい光と共に現れる。

 青白い光が床を走り、魔法陣の輪が幾重にも重なっていく。

 空気が震え、僅かに風が舞い上がった次の瞬間、眩しかった光は収束してルイスの姿は跡形もなく消えた。

 ――部屋に残った僅かな魔力の余韻と微かに揺れる古びたカーテンに、テオドールは深く息を吐き出す。

 「――私には守りたい人達がいる。約束通り、必ず生きて戻る……!」


 ***

 ――テオドールが魔獣討伐へと出立してから三か月。
 少し汗ばむ夏の気配が感じ始められたトリノ離宮には眩しい日差しが差し込み、日々穏やかな時が流れていた。


 生後6か月になったエリーンは小さな歯を覗かせる様になり、最近は柔らかい食べ物も口にする様になった。

 ルイス指導のもと、ローラ考案のエリーンの為の魔道具はマリアンヌがエリーンに食べ物を食べさせる時に大活躍している。

 「ローラは子育て用魔道具を創る天才ね。このお野菜を一瞬で柔らかく、そして潰せるお鍋は便利だわ」

 本当は離宮の料理人に任せれば良いのだけれど、いつも張り切る料理長に味のしない極薄の潰した野菜を作って欲しいとは中々頼めない。

 東の国の文献に詳しいルイス曰く、西の国よりも長寿のこの国の子育てでは、赤子に初めて食べさせる食べ物には塩や砂糖を入れないのだとか。

 ――マリアンヌはルイスの意見に賛同し、調味料を入れない柔らかい野菜を食べさせる事にしたのだ。

 ローラは、その話を聞くと、火を使わずに瞬時に鍋に野菜を入れたら柔らかくなり、ボタンを押すと野菜が滑らかに潰れる魔道具鍋を完成させた。

 そして、ルイスはマリアンヌがエリーンに食事をさせる為の椅子を創った。

 「こちらの子供用の椅子ですが、エリーンお嬢様の身体の成長を毎日探知し、高さが自動で変わる様になっております。そして、エリーンお嬢様が誤って食べ物を落としそうになりましたら、はい、この様に……」

 ルイスがわざと、パン粥をスプーンで落とすと、ポタリと床に落ちる筈のパン粥はふわりと宙に浮き、そのまま皿に戻っていった。

 (ふふっ。床には落ちなくても、口元や服には食べ物がベタベタなんだけど……)
 真面目に椅子の説明をしているルイスに、マリアンヌはニコニコとしている。

 「まあっ! ルイス様、私の新たな子育て用の魔道具をご覧下さいっ。こちらはエリーンお嬢様のドレスが汚れなくなる魔道具なんですよ?」

 ローラが鼻息荒く、新たに創ったのは、赤子用の食事をする時に首から掛けるエプロンだ。

 「こちらの赤子用エプロンを装着しますと、ベタベタした食べ物がお口周りや首元に付くとあっという間に回収して消えてしまうのです」

 マリアンヌはエリーンが作った赤子用のエプロンがとても気に入った。

 「凄いわ! いちも清潔な状態でエリーンが食事出来るなんて! あ、ルイス様の子供用の椅子もとっても便利です」

 マリアンヌはエリーンを子供用の椅子に座らせ、パン粥と野菜のトロトロスープを笑顔で娘の口元へ運ぶ。

 エリーンは怪訝そうに眉をひそめた後、やがて小さな口を開けてピチャリと音を立てながらムグムグと口を動かし飲み込んだ。

 「そうそう……とっても上手よ。よく出来ました」

 マリアンヌの声には母としての柔らかな喜びが滲んでいた。

 日々の忙しさは、テオドールのいない寂しさや不安を紛らせ、ローラとルイスの優しい気遣いもあり、離宮での暮らしは順調に見えた。

 ――その筈だった。


 ある日の午後。

 ルイスとローラが魔法の訓練の為に鍛錬場に出掛け、侍女達も部屋を離れていた。

 この日、広間にはマリアンヌとエリーンだけが残されていた。
 窓から差し込む陽光がレースのカーテンを透かして揺れている。

 マリアンヌはエリーンの小さなぷくぷくした手を握り微笑みながら話しかけた。

 「可愛いエリーン。もう少ししたらテオドール様も帰って来るわ。きっと驚いてしまうでしょうね。あなたがこんなに大きくなって……」

 その時だった。

 部屋の空気がひやりと凍りついた。

 閉まっていた筈の扉が音もなく開き、マリアンヌとエリーンの背後に影が立つ。

 「フフフ……毎日本当に楽しそうだねぇ……」

 聞き慣れぬ声に振り返ると、そこには初めて見る美しい男性の顔。

 ――第二皇子フィリップが何の前触れもなく妖しい微笑を浮かべて立っていた。

< 28 / 30 >

この作品をシェア

pagetop