怪物公女の母でしたが、子煩悩な竜人皇子様と契約再婚致します

29 美しい人形と異能の代償


 「――誰?」

 エリーンを抱き上げてあやしていたマリアンヌは、不意に背後に立つ気配に息を飲んだ。

 視線の先に立っていたのは、絹の様に光を弾く琥珀色の髪と、凍りつく程に澄んだアイスブルーの瞳を持つ青年だった。

 その青年はゆったりと微笑み、マリアンヌに向かって優雅に一礼する。

 「私はフィリップ・ノクティス・フォン・アグレシア。帝国の第二皇子だよ」

 「――っ皇子殿下?」

 マリアンヌの胸が不安でざわついた。

 ――第二皇子の噂は聞いた事がある。

 その姿は若かりし日のルードヴィッヒ皇帝と瓜二つ。
 とても気まぐれな性格だとか……。

 マリアンヌは改めて皇子を見つめた。

 整い過ぎたその顔は、どこか血の気がなく……。
 心を持たない人形を思わせる美しさだ。

 その時フィリップの視線がふと、マリアンヌの腕に抱かれたエリーンへと移る。

 「へぇ……。なるほど。この子が……」

 フィリップの細い指先がエリーンの喉元に触れた。

 ぞくり、と背筋を撫でる悪寒に、マリアンヌは咄嗟にエリーンを胸に抱き締め、身体を盾にする。

 「――っ……な、何を……」

 フィリップは唇の端を上げ、微笑むがその瞳は全く笑っていない。
 まるで、標本を眺める様な目付きだ。

 「嫌だなぁ。そんなに警戒しないでよね。私は……そう。この子の未来を覗いてみたかっただけなんだからさ。知らないって平和だよねぇ」

 その意味深な言葉にマリアンヌは息を詰めた。

 「そ、それはどういう……」

 マリアンヌが問いただそうとすると、フィリップは優雅に身を翻す。

 「そうだねぇ。知りたければ……三日後に開かれる舞踏会に参加してよ。あ、ドレスは後で贈るから心配しないで? 赤子を寝かせる控室も用意してあげるからさ」

 そう告げるとフィリップはパチンとウインクをして、部屋を後にした。

 マリアンヌの胸に、不吉な影が広がっていく。
 その日、マリアンヌは一日中フィリップ皇子の言葉の意味を考えていた。

 (どういう事……? まさか……テオドール様に何かあった……?)

 氷の様な冷たい微笑のフィリップの顔を思い出し、マリアンヌはこの不安を払拭する為にも、皇子の誘いを受けざる負えないと悟った。


 ***


 「カレン! 仕事だよ。お願いしたい事があるんだ」

 ――城に戻ったフィリップは、私室に戻るとピレーネ公国の異能者、カレンを呼び出した。
 カレンは皇帝直属の密偵だったが、フィリップが彼女の両親を救い出した事もあり、最近はフィリップからの任務も請け負う事を許される様になっていた。

 フィリップに久し振りに呼び出されたカレンは、胸の鼓動を抑える事が出来なかった。
 この皇子の気まぐれで両親と共にピレーネ大公家から救出されたカレンにとって、彼は命の恩人であり、憧れそのものだったのだ。

 カレンはドキドキしながら、額にかかる長く美しい赤髪をそっと整えるとフィリップの足元に跪く。

 「――お呼びでしょうか。殿下、私は殿下のいかなる任務も喜んでお引き受け致します」

 「やぁ、カレン! とても綺麗なお人形を見つけたんだ! カレンもよく知っている女性だよ。元ピレーネ大公妃のマリアンヌとその娘のエリーンだ。この二人を毎日お前の異能で見張っていて欲しい。面白そうな事が起きたら報告してよ。凄く興味深いんだ」

 カレンは驚き、目を見開いた。

 二度と思い出したくないピレーネ大公アレクシスの姿を思い出す。
 冷徹で激高すると、どこまでも残酷だったアレクシスが血眼で探していた元大公妃。

 彼女が失踪したせいで、カレンの両親は大公の拷問を受け、今でも後遺症で苦しんでいる。

 (大公妃が失踪しなければ、私の両親はあんな酷い目に遭う事はなかった。あの方の無責任な行動のせいで……)

 カレンはおずおずとフィリップに質問した。

 「あの……。マリアンヌ元大公妃を何故殿下が気にされるのですか? あの方は夫がいる身で恋人がいる……」

 「あぁ。知ってるよ」

 フィリップはカレンの頭を優しく撫でる。
 美しい指先が自分の髪に触れると、カレンの頬は熱くなった。

 「いい子だから、私の願いを聞いてよね。今マリアンヌとエリーン親子はトリノ離宮に滞在しているんだ。マリアンヌを連れて来たのは第三皇子のテオドールだよ」
 この衝撃の情報にカレンは驚きを隠せなかった。

 ――第三皇子の噂はカレンも知っている。

 野蛮な側妃の血を引く呪われた皇子。
 テオドール皇子の事を、皇家が疎ましく思っている事も。


 「――つまり、元大公妃の愛人がテオドール皇子殿下で、その親子を見張る事で怪しい動きがないか調べる、という事でしょうか……」

 フィリップはクスクス笑うと首を振った。

 「カレンは私がテオドールなんかを気にしていると本気で思ってるの? 私はね。面白いものが好きなんだよ。指先一つで息の根を止められそうな儚い命を守る美しいお人形の、あの必死さ。無垢な赤子の曇りの無い瞳はいつまで輝くものなのか……。面白いと思わない?」

 カレンは唇を噛み締めた。

 「あのお方は……フィリップ殿下が気にされる様な、そんな方ではありません。ふしだらで無責任な……」

 「カレン……私はお願いをしているんじゃない。命令だよ」

 フィリップのアイスブルーの美しい瞳が冷たく光る。

 「――っ……も、申し訳……ありません……。出来る限り……やってみます」

 慌てて頭を下げるカレンに、フィリップは満足そうに頷いた。

 「フフフ……。やはりカレンは可愛いな。心に不満を持ちながらも私の願いを聞いてくれる。君は近くの物を透視出来るけど、遠くの風景を視る事は苦手なんだよね? でも、同じ敷地内ならば可能だ」

 カレンは下を向いたままコクリと頷く。
 フィリップの瞳が冷たく細まり、僅かに震えるカレンの肩を見下ろした。

 「まぁ……。君がこの任務を苦痛に感じるなら他の子に頼むだけだけどね」

 驚いて顔を上げたカレンはフルフルと首を振ると、縋る様な瞳でフィリップに懇願する。

 「ま、毎日欠かさずマリアンヌ様とその子の動向を監視致します! ですから……」

 「では……。些細な事でも報告を怠らないでね。期待しているよ」


 ***


 ――部屋に戻ったカレンは、息を整え静かに意識を沈めた。


 瞼の奥で魔力を解き放つと、視界が緩やかに揺らいだ。
 やがて、まるで水面の下に別の景色が浮かぶ様に遠い場所の光景が視え始める。

 ――トリノ離宮の一室だ。

 元大公妃マリアンヌが娘を胸に抱き、歌を歌っている風景。
 声は聞こえなくてもそれが子守歌なのだと分かる。

 柔らかな陽光。
 幸せそうに娘を見つめ微笑むマリアンヌ。

 幸福そのものの絵画の様な風景だ。

 カレンの胸がざわめく。

 「――幸せそうですね……貴女のせいで私の両親は……」

 カレンの声は微かに震え、唇は血の色を失っていく。

 こめかみを鋭い針で刺す様な痛みが走り、視界の端が赤く滲んだ。
 鼻から一筋の血が滴る。

 大公アレクシスの命令で、かなり遠い場所にいたマリアンヌを遠視させられた時の後遺症だ。

 カレンは震える肩を抑え、目を開けた。

 その瞳にはなおも幸せそうに笑う親子の姿が映っている。

 カレンは唇をギリッと噛み締めた。

 マリアンヌが大公邸から姿を消したせいで両親は地獄の様な拷問にかけられた。
 今もなお、父は歩く事すらままならず、母は毎晩深夜になると悲鳴を上げ乍ら飛び起き、ブツブツと壁に向かって何かを呟いているのだ。

 (全てはこの方の失踪から始まったというのに……)

 元凶であるマリアンヌは、今や愛人と子供に囲まれて幸せそうに笑っている事がカレンには許せなかった。

 それだけではない。

 マリアンヌの話をしていた時、あの感情の無いフィリップ皇子の瞳が揺らぐ瞬間を、カレンは見逃さなかった。

 理解出来なかった。

 かつてはあの瞳の揺らぎは自分に向けられていた。
 皇子の興味が自分から逸れ、両親を壊した女とその娘へと移っていく。

 「ふ……フフフフフ……」

 ――嗚咽にも似た吐息と共にカレンは瞳を押さえた。

 視続けた代償で焼ける様に熱を帯びていく眼球。
 この痛みも皇子の為ならばいくらでも耐える事は出来ていた。

 (けれど……殿下の心があの親子に向くのだとしたら……)


 ――カレンの心を支配したのは、嫉妬を超えた憎悪だった。



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