深を知る雨
被害件数が0であることを確認してから、芳孝は立ち上がって珈琲を入れた。
ロボットに頼んでも良かったのだが、歩きたい気分だったのだ。妙に興奮していた。
空はまだ赤い。芳孝にとっては赤だった。
(本当に、やってのけたのか、あの女は)
電子機器は一切壊れていない。
芳孝の部屋の冷蔵庫だってきちんと仕事をしている。
芳孝にはこれが夢なのか現実なのか分からなかった。
出来立ての珈琲を飲みながら、優香が部屋を出ていく前に自分に渡してきた書類をジュノンに渡す。
そこには、架空の人物の名前と生い立ちが書かれている。
「……何だ?これは」
優香といいジュノンといい、年上に敬語を使うということを知らないのかと呆れつつも、芳孝はきちんと説明をした。
「君の新しい名前だそうだ。皐月里緒、日本国籍。これを読んだら燃やせ。CIGIの構成員だったなら、これくらいすぐ頭に入れられるだろう」
優香がジュノンに与えた新しい人生。
別人としての、人生。
これで彼がCIGIに追われることは無い。
ジュノンからすれば、優香は恩人以外の何者でもないだろう。
芳孝にとっては、奪って与えただけの悪魔の所業に見えるが。
「あの女も酷なことをするな。可哀想に」
同情の苦笑ではなく、嘲笑だった。
芳孝には憎むべき相手に感謝するジュノンが滑稽に見えた。
ジュノンは何故そんな笑いを向けられなければならないのか疑問に思ったが、他に生きる術がないので必死に書類に書かれたプロフィールを頭に叩き込む。
その日ハン・ジュノンは死に、皐月里緒が生まれた。
優香が帰ってきたのは夜である。
里緒は芳孝の部屋で既に眠りについていた。
「こんなところでお待ちかね?心配してくれたのかしら」
傷1つ負っていない優香は、部屋の戸に背中を預けて廊下に立っていた芳孝に微笑みかける。
「今まで何をしていた?何故すぐ戻ってこなかった」
「ジュノンのお仲間の記憶をもう1度消しに行ってたのよ。人間の脳って不思議よね。記憶消去能力を使っていくら記憶を消しても、ふとしたことで思い出すことがある。懐かしい匂い、手紙の文字、昔通った道、古い友人の名前……確率はとても低いけれど、些細なことがきっかけで記憶を取り戻す人がいるの。彼らもそうだった。ジュノンとの楽しかった思い出をすぐに思い出して、ジュノンが本当に裏切り者だったのか疑い始めてたわ。そうなるとジュノンにあたしのしたことがバレる可能性があるでしょう?余計な敵意を向けられる可能性は常日頃から払拭しなくちゃ」
「――――だから夜に戻ってきたのか」
芳孝の言葉を聞いて、優香は笑みを深めた。
両者は睨み合う。互いを探るように。
記憶消去能力は発生させるための条件がある。
記憶を消す対象が眠っている状態にあることだ。
優香は、今度は芳孝の記憶を消そうとしている。
「僕の記憶を消す必要がどこにある?僕があの子供に事実を言うとでも?」
「言う理由はないけれど、言わない理由もないわよね。君がバラしちゃったらあたしはジュノンに恨まれるでしょ?それは避けたい。あたしはできるだけ人に悪意を向けられないように生きてるの。さっきも言ったけど、リスクは最小限にしたいからね」
「僕からバラす気はない」
「今そのつもりでも、今後芳孝くんがあたしに対して敵意を抱いたら?あたしを陥れようとしたら?あたしの把握し得ないところでジュノンにあたしのしたことをバラしたら?芳孝くんの何気ない一言から、ジュノンが全てを悟ったら?ね、あらゆる可能性があるでしょう。全てに対策するよりは芳孝くんの記憶を眠らせた方が早いわ」
相手がSランク能力者であるが故に抵抗されれば時間が掛かると思って眠っているであろう時間に戻ったのだが、芳孝は気付いてしまっていた。
どうやらSランク能力者同士の戦闘を始めるしかないらしい――そう諦めて優香が攻撃を仕掛けようとした、その時。
「消さないでくれ」
芳孝が一歩踏み出し、優香の頬に手を添える。
「君のことを忘れたくない」
優香は珍しく僅かに驚いた。
驚いたせいで攻撃のタイミングを逃した。
そしてその後、逆にある種の攻撃を受けた。
芳孝と優香の唇が重なる。
触れるだけですぐ離れ、至近距離で暫く見つめ合ったが、お互い感情の読めない目をしていることだけしか分からなかった。
「……本気で言ってんだか思い通りに動かすためだけに言ってんだか分からないのが芳孝くんの怖いところよね。20年やそこらしか生きてない小娘が一回り以上年上の大人の男相手にすべきじゃないって今学んだわ」
そう苦笑いした優香は攻撃する気も失せて芳孝から離れようとしたが、芳孝はそれを阻止するように優香の腕を掴む。
「リスクを最小限にしたいならあの子供の記憶を消せ。CIGIにいた頃の記憶全てだ」
「無理よ。さっき能力を使用したばかりだし、短期間に連続でそんな長期間の記憶を消そうとしたら精度が落ちる。芳孝くんにここ数ヵ月のあたしとの記憶を眠らせてもらった方が確実だわ。……まぁ、それも何かめんどくさくなってきちゃったけど」
予想外のキスにより大幅に戦闘意欲を削がれたらしい優香は、はぁ~と大きく溜め息を吐いた。
「分かった。お望み通り、芳孝くんの記憶は消さない」
「信用できないな、君が言うと」
「そう?でもあたし、こう見えて芳孝くんのことは結構本気で気に入ってんのよ?ここへ来る途中も、忘れさせるのは惜しいと思ってたとこ」
それこそ本当だか口先だけなんだか分からない言葉を口にした優香は、爪先立ちをして今度は自分から芳孝に口付ける。
芳孝もそれに応えるようにして口付けを深くした。
「……芳孝くんキスうっま」
「こういう時に黙っていられる程度の可愛いげはないのかな、君には」
「何よ、感想言ってるだけじゃない」
途中で言葉を交わしながら、触れては離れ触れては離れを繰り返す。
随分と長い間触れ合った後、芳孝は優香から手を離して聞いた。
「1つ聞いていいか」
「なーに?」
「君はどうしてあの日、あんなに怒鳴っていた?どうしてあんなに必死だった。戦争に一般人を巻き込むのがそんなに嫌いなのか」
司令官室で会った時、優香は確かに本気で怒っていた。
一般人を巻き込むなと。
一般人を守るのが軍人の仕事だと。
優香が自分と似た者同士であるならば、国がどうなろうと構わないはずだ。
芳孝はそこに優香と自分の決定的な違いが潜んでいるように感じていた。
だから問うた。
知りたいと思ったから。
興味を抱けなかった優香のことを、初めて知りたいと思ったから。
だが、優香は何も答えなかった。
ただ微笑むだけで、最後まで芳孝にその問いの答えを教えることはなかった。
――――この数ヵ月後、優香は芳孝の前から死という形で姿を消すことになる。
芳孝は結局、彼女がどういう人間なのか知らずに終わった。
彼女が何を見て何を感じ、何を思って生きていたのか――その全てを知らないまま、たった数ヵ月の彼らの関係は終わった。
では、彼の知れず仕舞いであった橘優香とは、結局どういう人物だったのか。
“一般人を巻き込むのが嫌い”。
間違っていない。
確かに優香には一般人を巻き込みたくないという強い気持ちがあった。
しかしそれは日本帝国にいる全ての一般人を、というわけではない。
彼女にはどうしても守りたい人が在った。
その人間は日本にいた。
彼女はその人間のために軍人になり、その人間のために戦争に勝とうとしていた。
ただ1人。
全てはただ1人の少女のために。
幼い頃唯一、“優香の能力”ではなく“優香自身”を見てくれた、親でも友人でもない少女のために。
世界を敵に回そうとも、他国の人間をどれだけ傷付けようとも、平和な日本を少女に差し出せるなら優香はそれで良かった。
芳孝の感じた優香の歪みはそこにある。
優香は誰よりも妹が大切だった。
妹が笑っていられる平和な世界を作りたがっていた。
優香のそんな思いを知る者は、今現在においてもただ1人しか存在しないのだが――――その話は、また別の機会にすることにしよう。