薄氷の城
第 12話 女の城
ユリアーナとヴィレムの結婚から二年が経とうとしている。
オモロフォ城の中庭はユリアーナのプライベートスペースとして、こぢんまりとしていながら、ユリアーナの好きな花が季節毎に色々と咲くように綺麗に整えられている。五月の今は香りの良いゼラニウムと華やかなペラルゴニウムが花盛りを迎えている。
その中庭に据えられたテーブルセットには、ユリアーナと母のゾフィー、そしてユリアーナが昨年産んだエフェリーンがいる。
エフェリーンは、乳母と一緒に中庭をゆっくりと歩き始めた。
「エフェリーンも一歳になったのね。」
ゾフィーは一人歩きを始めた孫に目を細める。ヨハンが昨年七月に、アンナが先月に結婚してゾフィーは肩の荷が下りた気がしていた。今は、目の前の孫を可愛がるだけが喜びになっている。
アンナが結婚するまで何かと忙しくしていたため、今日はやっと、エフェリーン一歳の誕生日を祝いに来られていた。
「ユリアーナはあまり顔色が良くないけれど、大丈夫?」
「えぇ。大丈夫よ。」
第一子を妊娠したと分かった時、ヴィレムの喜び様は凄かった。無事に生まれてくるかもまだ分からない時から、男の子向けのおもちゃなどを買ってきていた。ユリアーナがいくら気が早すぎると嗜めても、帰宅の度に何かを抱えて帰って来る始末だった。
そんな待望の第一子が無事に誕生し、それが女の子だと分かるや彼の気落ちは激しかった。
そして今は、男女の産み分けの仕方なんて言う誰から聞いてきたのか分からない方法を日々ユリアーナに実践させている。
食べ物や、行為後の寝姿勢など、誰から聞いてきたのか、もしこんなことをしているなんて誰かが知っているのならもう外へ出るのも恥ずかしいと思う様なことさえもヴィレムはユリアーナにやらせている。
そんな日々の疲れが出たのか、先日ユリアーナはめまいを起こした。元来体は丈夫な質で、小さな頃から風邪で寝込む様なことも殆どなかった。そんなユリアーナが辛そうにしているので、フェルバーンから一緒に来たメイドのボーが医師を呼んだ。その事はヴィレムの耳に直ぐに入り、彼は馬を飛ばして帰宅した。それなのに妊娠ではなく疲れのためだと医師に説明されたヴィレムは大きなため息を吐いて部屋を出て行ってしまった。
ユリアーナはその事をゾフィーには言わなかったが、ボーがあれこれと気を遣い、疲れているユリアーナを心配してゾフィーに手紙を書いていた。
「ヴィレム殿下も、ユリアーナもまだ若いのだからそんなに焦らなくても良いのにね。」
乳母と楽しそうに遊んでいるエフェリーンを微笑ましそうに見つめながらゾフィーは言う。ヴィレムがエフェリーンを抱いたのは生まれたばかりの時一度だけ。名前も結局、ユリアーナの父エルンストが付けた。
「ヴォルテルとピーテルのところに同じ頃に男の子が生まれたことが大きいみたいで。先日もトーマスにその事を話題にされたと苦々しい顔をしていたから。」
「そう。旦那様がその調子だと、難しいとは思うけれど、あまり考えすぎてはだめよ。公爵夫人としても忙しいのでしょう?自分の体を休めることも考えてね。」
「ありがとう。お母様。」
∴∵
「今日は、フェルバーン伯夫人がいらしていたんだって?歴史の講義のある日ではなかったか?」
居城のエントランスでユリアーナとエフェリーンがヴィレムを出迎える。我が子が初めて自ら歩いて出迎えたのにヴィレムの目にエフェリーンは映っていない。
「先日めまいを起こしたのが、アレクサンダル先生の講義の時だったので、一日休講にして下さって。」
子どもの歩幅に合わせようともせず歩き出すヴィレムを、ユリアーナはエフェリーンを抱いて追いかける。
「疲れだったか?それくらいのことで講義を休まれては困る。君は公爵夫人で、兄上が国王に即位後にはこの家は筆頭公爵家となる。そう言う地位にいる私たちにとって努力とは義務なんだ。公爵夫人としての正しい生き方も…いや、生きる事自体が義務で勝手に死ぬことも許されない。なのに、そんな弱気では困るよ。フェルバーン伯夫人も娘の面倒を見てもらうのは構わないが、君が相手をする必要などないだろう?とにかく、公爵夫人としての役割は何をおいても完璧にして欲しい。」
「次は、講義のない日に来てもらう様にします。」
「それが良いね。公爵夫人としての役割をおろそかにしてはいけないよ。」
∴∵
「お、おっ。ヤンおいで。上手だぞ。」
濃い青紫色の絨毯に、灰色がかった濃い黄色のカウチが印象的な子ども部屋で、ヴォルテルは、昨年の七月に生まれた我が子の一人歩きに感激の声を上げる。
「昨日までは伝い歩きだったのですが、今日初めてお一人で歩かれました。それでも先ほどまでは、しゃがみ込むばかりだったのですが、若様がお見えになってこうして歩かれるなんて、ヤン様もやはりお父様に歩けるようになったのをご覧に入れたかったのですね。」
ヤンの乳母、ロッテは嬉しそうに話す。ヴォルテルはしゃがみ込んだヤンを抱き上げて顔をほころばせる。
「この姿をヘンドリカは見たのか?」
「ヤン様が歩かれたことは、お伝えしましたが、若奥様は、ご気分が優れないようで…」
「そうか、それは残念だな。」
ヤンが生まれて半年ほど経った頃から、ヘンドリカは何故か落ち込む様な事が増えていった。突然泣き出し、理由を尋ねても首を振ってただひたすら涙をこぼしてばかり。そして自室に籠もり出てこなくなってしまう。そんなことが週に何度か起る。今では十ヶ月になる我が子を抱くこともしなくなった。
ヴォルテルは、ヤンを乳母に任せ、部屋を出た。その足で向ったのはヘンドリカの部屋だった。
「ヘンドリカ?まだ体調は優れないかい?」
「はい。そのようです。申し訳ありません。若様。」
ヴォルテルは返事をしばらく待ったが、返ってきたのはメイドのアレッタの声だった。
「あぁ。わかった。無理をしないように伝えてくれ。」
「はい。畏まりました。」
自室のベッドの上でヘンドリカは声を殺して泣いていた。ヴォルテルの優しさが辛かった。何一つ満足に出来ない自分を責めることもせず、ただ寄り添おうとしてくれるその優しさが、ただ辛かった。
オモロフォ城の中庭はユリアーナのプライベートスペースとして、こぢんまりとしていながら、ユリアーナの好きな花が季節毎に色々と咲くように綺麗に整えられている。五月の今は香りの良いゼラニウムと華やかなペラルゴニウムが花盛りを迎えている。
その中庭に据えられたテーブルセットには、ユリアーナと母のゾフィー、そしてユリアーナが昨年産んだエフェリーンがいる。
エフェリーンは、乳母と一緒に中庭をゆっくりと歩き始めた。
「エフェリーンも一歳になったのね。」
ゾフィーは一人歩きを始めた孫に目を細める。ヨハンが昨年七月に、アンナが先月に結婚してゾフィーは肩の荷が下りた気がしていた。今は、目の前の孫を可愛がるだけが喜びになっている。
アンナが結婚するまで何かと忙しくしていたため、今日はやっと、エフェリーン一歳の誕生日を祝いに来られていた。
「ユリアーナはあまり顔色が良くないけれど、大丈夫?」
「えぇ。大丈夫よ。」
第一子を妊娠したと分かった時、ヴィレムの喜び様は凄かった。無事に生まれてくるかもまだ分からない時から、男の子向けのおもちゃなどを買ってきていた。ユリアーナがいくら気が早すぎると嗜めても、帰宅の度に何かを抱えて帰って来る始末だった。
そんな待望の第一子が無事に誕生し、それが女の子だと分かるや彼の気落ちは激しかった。
そして今は、男女の産み分けの仕方なんて言う誰から聞いてきたのか分からない方法を日々ユリアーナに実践させている。
食べ物や、行為後の寝姿勢など、誰から聞いてきたのか、もしこんなことをしているなんて誰かが知っているのならもう外へ出るのも恥ずかしいと思う様なことさえもヴィレムはユリアーナにやらせている。
そんな日々の疲れが出たのか、先日ユリアーナはめまいを起こした。元来体は丈夫な質で、小さな頃から風邪で寝込む様なことも殆どなかった。そんなユリアーナが辛そうにしているので、フェルバーンから一緒に来たメイドのボーが医師を呼んだ。その事はヴィレムの耳に直ぐに入り、彼は馬を飛ばして帰宅した。それなのに妊娠ではなく疲れのためだと医師に説明されたヴィレムは大きなため息を吐いて部屋を出て行ってしまった。
ユリアーナはその事をゾフィーには言わなかったが、ボーがあれこれと気を遣い、疲れているユリアーナを心配してゾフィーに手紙を書いていた。
「ヴィレム殿下も、ユリアーナもまだ若いのだからそんなに焦らなくても良いのにね。」
乳母と楽しそうに遊んでいるエフェリーンを微笑ましそうに見つめながらゾフィーは言う。ヴィレムがエフェリーンを抱いたのは生まれたばかりの時一度だけ。名前も結局、ユリアーナの父エルンストが付けた。
「ヴォルテルとピーテルのところに同じ頃に男の子が生まれたことが大きいみたいで。先日もトーマスにその事を話題にされたと苦々しい顔をしていたから。」
「そう。旦那様がその調子だと、難しいとは思うけれど、あまり考えすぎてはだめよ。公爵夫人としても忙しいのでしょう?自分の体を休めることも考えてね。」
「ありがとう。お母様。」
∴∵
「今日は、フェルバーン伯夫人がいらしていたんだって?歴史の講義のある日ではなかったか?」
居城のエントランスでユリアーナとエフェリーンがヴィレムを出迎える。我が子が初めて自ら歩いて出迎えたのにヴィレムの目にエフェリーンは映っていない。
「先日めまいを起こしたのが、アレクサンダル先生の講義の時だったので、一日休講にして下さって。」
子どもの歩幅に合わせようともせず歩き出すヴィレムを、ユリアーナはエフェリーンを抱いて追いかける。
「疲れだったか?それくらいのことで講義を休まれては困る。君は公爵夫人で、兄上が国王に即位後にはこの家は筆頭公爵家となる。そう言う地位にいる私たちにとって努力とは義務なんだ。公爵夫人としての正しい生き方も…いや、生きる事自体が義務で勝手に死ぬことも許されない。なのに、そんな弱気では困るよ。フェルバーン伯夫人も娘の面倒を見てもらうのは構わないが、君が相手をする必要などないだろう?とにかく、公爵夫人としての役割は何をおいても完璧にして欲しい。」
「次は、講義のない日に来てもらう様にします。」
「それが良いね。公爵夫人としての役割をおろそかにしてはいけないよ。」
∴∵
「お、おっ。ヤンおいで。上手だぞ。」
濃い青紫色の絨毯に、灰色がかった濃い黄色のカウチが印象的な子ども部屋で、ヴォルテルは、昨年の七月に生まれた我が子の一人歩きに感激の声を上げる。
「昨日までは伝い歩きだったのですが、今日初めてお一人で歩かれました。それでも先ほどまでは、しゃがみ込むばかりだったのですが、若様がお見えになってこうして歩かれるなんて、ヤン様もやはりお父様に歩けるようになったのをご覧に入れたかったのですね。」
ヤンの乳母、ロッテは嬉しそうに話す。ヴォルテルはしゃがみ込んだヤンを抱き上げて顔をほころばせる。
「この姿をヘンドリカは見たのか?」
「ヤン様が歩かれたことは、お伝えしましたが、若奥様は、ご気分が優れないようで…」
「そうか、それは残念だな。」
ヤンが生まれて半年ほど経った頃から、ヘンドリカは何故か落ち込む様な事が増えていった。突然泣き出し、理由を尋ねても首を振ってただひたすら涙をこぼしてばかり。そして自室に籠もり出てこなくなってしまう。そんなことが週に何度か起る。今では十ヶ月になる我が子を抱くこともしなくなった。
ヴォルテルは、ヤンを乳母に任せ、部屋を出た。その足で向ったのはヘンドリカの部屋だった。
「ヘンドリカ?まだ体調は優れないかい?」
「はい。そのようです。申し訳ありません。若様。」
ヴォルテルは返事をしばらく待ったが、返ってきたのはメイドのアレッタの声だった。
「あぁ。わかった。無理をしないように伝えてくれ。」
「はい。畏まりました。」
自室のベッドの上でヘンドリカは声を殺して泣いていた。ヴォルテルの優しさが辛かった。何一つ満足に出来ない自分を責めることもせず、ただ寄り添おうとしてくれるその優しさが、ただ辛かった。