薄氷の城
「ドロテア、調子はどう?何かして欲しいことはある?」

 ユリアーナの一つ年下の弟、ヨハンは帰宅するとそのまま湯浴みをして着替えを済ませてその足で妻であるドロテアの休んでいる寝室に顔を出すのがこのところの習慣だ。彼女はヨハンの姿を見ると嬉しそうに笑って両手を広げた。ヨハンが優しく抱きしめると、彼からほのかなミントの香りがした。

「今日もミントのお風呂に入ってきたの?」

 ヨハンは笑って頷いた。ドロテアはつわりが酷いらしく、特にヨハンの体臭に反応してしまう様だった。そもそも妊娠が分かったのが、帰宅したヨハンを出迎えたドロテアが吐き気を起こした事からだった。だからヨハンは帰宅後と就寝前にミントの葉を入れた浴槽に浸かる様にしていた。浴槽一杯に湯をためることはとても贅沢で、入浴の頻度は庶民では週に一、二度ほど。貴族でも一日おきの人もいる。フェルバーン家では元から毎日入浴する習慣ではあったが、ドロテアの様子を見に行く度に気分悪そうにする姿が気の毒で、ヨハンは二度の入浴を心がけている。

「今日は、母さんが妊娠中に飲むことができてたって言うローズヒップのハーブティーとトマトのスープを用意する様に言ったから、後で運ばせるね。」
「ありがとう。」
「飲めるところまでで良いから、他に何か食べたくなったものはない?」
「明日はこの前食べた、ジャガイモとしょうがのスープがいい。おいしかったわ。さすがお義母様(かあさま)のお勧めね。」
「わかった。伝えておくよ。」
「お義母様は今日は帰らないとおっしゃっていたのだけど…」
「フェルスタッペンの所へ行って、泊まって帰るそうだ。」
「アンナ様のところ?先月結婚したばかりで…」
「フリッツが是非にと招待してくれたらしい。」

 ドロテアは少し困った顔をした。

「お義母様、自分がいると私が寝ていることも出来ないからと、このごろ頻繁にお出かけなさっているのではない?」
「いや、そんなことないよ。今までは子育てが第一だと言って、自分の遊びは控えていただけで。妹も結婚してやっと自由が手に入ったって大喜びしていたんだ。それで、色々と出歩いているだけだから。君は気にしなくて良いよ。」
「わかった。でも、お義母様には色々お気遣い頂いてありがとうございますと伝えておいてね。」
「あぁ。わかった。伝えておくよ。」

 ヨハンは、ドロテアの額にキスをした。


∴∵
 

 マッティス辺境伯家の次男であるフリッツはユリアーナの妹アンナと結婚し、その時にフェルスタッペン伯爵の爵位を譲り受け、元々あった王都の屋敷を改修し住んでいた。
 屋敷は今の流行を取り入れたものになっている。ここ十年くらいで流行りだしたのはエシタリシテソージャから入って来た壁紙だった。落ち着いたアンバーローズの壁紙を土台にして柔らかい赤色のファブリックが若者らしい設えだった。

「それで、ユリアーナは元気そうにしていたの?」
「えぇ。まだ、エフェリーンから目が離せないし、疲れてはいる様だけれど、元気にしていたわ。」
「私たちの結婚式にもご出席頂いて、エフェリーンも愛らしく育っていますし、ユリアーナ様も充実した日々をお過ごしのようですね。」
「えぇ。そうね。」

 フリッツの言葉に対する母の答えに少しの違和感を味わいながら、アンナは知らぬ振りで過ごした。

「それで、ドロテア様のお加減は?」

 結婚に伴った一連の行事や手続きが全て終わったことを報告へ行こうと、フリッツがフェルバーン家へ伺いを立てた時、ドロテアの体調不良を理由に訪問を断わられていた。
 その代替案として、ゾフィー一人でフェルスタッペン家へ顔を見せることになった。

「心配はいらないわ。感冒か何かでしょう。ただ、具合の悪い時に騒がしいとゆっくり出来ないでしょう?アンナと旦那様はすぐに言い合いを始めるから、ドロテアが可哀想だもの。」

 ゾフィーはメイン料理の羊のソテーを一口食べて、クスリと笑った。

「お母様ったら。言い合いではなく話し合いよ。」
「我が家の食卓は弁論大会の会場じゃないのよ。フリッツもアンナには気を遣いすぎないでね。言いたいことはきちんと言った方が良いわ。倍になって返ってくるかも知れないけれど。」
「アンナとの会話はとても楽しいです。マッティス家でも姉は良く父と色々な事を話し合っていました。ですから、私も結婚相手は自分の迷いや決断について話せる相手が良いと思っていました。なので、アンナとの会話はとても面白いです。」
「そう?ならば良かったけれど…旦那様は世間とは少し考え方が違うでしょう?そんな家庭で育った娘たちが他の家庭に馴染めるか母親として心配していたの。」

 フリッツはワインを一口飲んで笑顔になった。

「マッティスの父が子どもに男女の別なく色々と話す切っ掛けを作ったのは、エルンスト様だと聞きました。」
「旦那様が?」
「はい。ハーリーをした際に、娘にも知識は必要だと話していたそうです。広く知識を持たないと夫や子どもを守ることは出来ないと。自分たちは様々な情報を集め精査し国を守るためにそれを使う。家庭も同じ様なものではないかと思ったと言っていました。」
「そうだったの。」
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