薄氷の城
第 14話 冬
ユリアーナとヴィレムの第二子マリアンネが生まれて半年が経った。
季節も初夏から真冬へと変った。この国の冬はそれほど寒くない。平地では十度を下回る事もなく、雪はサーフマ山などの山にしか降ることはない。
ユリアーナは、年末の年中行事のことでと、義母のアンドレーアに呼ばれカサロス城に来ていた。二人の娘を連れてきたが、アンドレーアは目通り中、一度も顔を見たいなどと言わなかった。
ユリアーナが視線を落とすと、血のような鮮やかな赤色のシクラメンが見事に咲いていた。アンドレーアに言われたことを、頭の中で整理しながら庭を歩いていた。
∴∵
「半年前から、メイドとして働いていたイルセがいるわね?」
「はい。何かございましたか?」
ヴィレムからは、家門の娘で婚家が見つからないのをメイドとして雇ったと聞いていた。ユリアーナ直属のメイドでない限り、仕事ぶりを直に見ることは少ないが、何かあればメイド頭から報告があるはずだから、仕事は無難に熟しているのだと思っていた。
「ヴィレムの手付きになりましたから、そのように扱いなさいね。」
ユリアーナの心臓は大きくドクンと動いた。そのせいで自分の心臓の音が、アンドレーアに聞こえてしまったのではないかと思った。相手に悟られぬように、自分の気を落ち着かせる。
「はい。謹んで承りました。お義母上様。」
穏やかに微笑んだユリアーナに対して、アンドレーアは右の眉が少しだけ上がった。
「貴女はさすが、王妃のお気に入りの娘ね。顔色一つ変えずに受け入れるだなんて。あの頃の私には出来なかった…。分かったのなら良いわ、下がりなさい。」
「はい。御前を失礼致します。」
∴∵
そよそよと風が首筋を通っていく。そして視界いっぱいの鮮やかなシクラメン。
「奥様、寒くはございませんか?」
「えぇ。大丈夫。子どもたちは?」
「風が強く寒いので、乳母と馬車で待っています。」
「そう。私はもう少し、この綺麗な庭を見ていたいわ。」
「シクラメンもこの様に沢山あると見応えがございますものね。馬車に掛けるものがあるはずですからお持ちしますね。」
「えぇ。お願い。」
ボーは小走りで馬車回しの方へ行った。
思うままに庭を歩いていると、誰かが向かいからやって来た。ユリアーナはまるでお手本の様な礼の姿勢をする。これは貴族が目上の人に対して行う礼で、公爵家の夫人であるユリアーナがする相手は王族だけとなる。
「私が誰か分からないのね。」
「アニカ様におかれましては、ご機嫌麗しく存じます。お初にお目に掛かります。私は、ユリアーナ・アルテナと申します。」
「分かっているのなら、出自も今の身分も貴女の方が上なのだから、そんな礼をする必要なんてないのに。」
「ある国では子供が自身の親を敬い支え、親の心を安んじ、敬意を示すことと説くそうです。」
アニカは首を傾げる。
「自身の親ではなくても、子を持つ人は偉大だと思うのです。私は元より体が丈夫で娘を二人、何事もなく授かることが出来ましたが、私の母は妹を産んだ際、出血も酷く命がけだったそうです。そして、三人目は体が耐えられるか分からないと言われたそうです。それも当然です。一人の人間が、同じ一人の人間を産み出すのですから。簡単な筈はありません。ですから、私は母であるだけでも心から尊敬を致します。」
‘ご自愛下さい’と立ち去ろうとしたユリアーナをアニカは呼び止める。
「貴女は嫌ではないの?」
「何がでしょうか?」
「貴女は結婚する前はとても誇り高かったのに、今は小さな場所に縛られているように見える。」
∴∵
「あまり口うるさくは言いたくないのだけれど、あなたたちは上手くいっているの?」
ブラウェルス家のコンサバトリーで、夫人のクラシーナはウィルヘルミナとお茶を飲んでいる。
「あら、お義母様。ご心配頂きまして感謝いたします。そう言えば、お義母様の生家のハルセマ家ですが、そこのご令嬢が兄のところにメイドとして雇われていると聞きましたけれど。」
優しく微笑むウィルヘルミナに、クラシーナも喜色を露わにする。
「えぇ。王太子妃のアンドレーア様の紹介でそのように。」
「そうでしたか。母の…。」
「えぇ。良いお話しを頂いたと、兄も喜んでいたわ。」
「末端の男爵家では手付きから後妻の座を…なんて事を企むしか辺境伯家、ましてや公爵家には嫁げませんものね。」
ウィルヘルミナは、笑顔は変えないままで、優美で洗練された所作で紅茶を口にする。
「メイドから手付きになれば、結婚の費用なども必要ありませんし、上手くすれば、正妻と同じ扱いをしてもらえますものね。良いお話しがあって、お嬢様もお喜びでございましょうね。」
寒い冬の太陽のような暖かな笑顔が、クラシーナの背筋を寒くする。
「お義母様、私たちのことはどうぞお構いなく。私たちは私たちの夫婦の形がございますの。そんな事よりこの紅茶、美味しゅうございますわ。どちらの茶葉で?」
「先日、王太子妃殿下にお会いした時にウィルヘルミナと一緒に飲むようにと頂いた茶葉です。」
「あらっ、母の。」
ウィルヘルミナは再び口を付けようとしていたカップをテーブルに置いて、スクッと立ち上がった。
「私、ユリアーナお義姉様にお手紙をしたためなくてはいけないことを忘れておりました。それでは失礼致しますね、クラシーナ様。」
季節も初夏から真冬へと変った。この国の冬はそれほど寒くない。平地では十度を下回る事もなく、雪はサーフマ山などの山にしか降ることはない。
ユリアーナは、年末の年中行事のことでと、義母のアンドレーアに呼ばれカサロス城に来ていた。二人の娘を連れてきたが、アンドレーアは目通り中、一度も顔を見たいなどと言わなかった。
ユリアーナが視線を落とすと、血のような鮮やかな赤色のシクラメンが見事に咲いていた。アンドレーアに言われたことを、頭の中で整理しながら庭を歩いていた。
∴∵
「半年前から、メイドとして働いていたイルセがいるわね?」
「はい。何かございましたか?」
ヴィレムからは、家門の娘で婚家が見つからないのをメイドとして雇ったと聞いていた。ユリアーナ直属のメイドでない限り、仕事ぶりを直に見ることは少ないが、何かあればメイド頭から報告があるはずだから、仕事は無難に熟しているのだと思っていた。
「ヴィレムの手付きになりましたから、そのように扱いなさいね。」
ユリアーナの心臓は大きくドクンと動いた。そのせいで自分の心臓の音が、アンドレーアに聞こえてしまったのではないかと思った。相手に悟られぬように、自分の気を落ち着かせる。
「はい。謹んで承りました。お義母上様。」
穏やかに微笑んだユリアーナに対して、アンドレーアは右の眉が少しだけ上がった。
「貴女はさすが、王妃のお気に入りの娘ね。顔色一つ変えずに受け入れるだなんて。あの頃の私には出来なかった…。分かったのなら良いわ、下がりなさい。」
「はい。御前を失礼致します。」
∴∵
そよそよと風が首筋を通っていく。そして視界いっぱいの鮮やかなシクラメン。
「奥様、寒くはございませんか?」
「えぇ。大丈夫。子どもたちは?」
「風が強く寒いので、乳母と馬車で待っています。」
「そう。私はもう少し、この綺麗な庭を見ていたいわ。」
「シクラメンもこの様に沢山あると見応えがございますものね。馬車に掛けるものがあるはずですからお持ちしますね。」
「えぇ。お願い。」
ボーは小走りで馬車回しの方へ行った。
思うままに庭を歩いていると、誰かが向かいからやって来た。ユリアーナはまるでお手本の様な礼の姿勢をする。これは貴族が目上の人に対して行う礼で、公爵家の夫人であるユリアーナがする相手は王族だけとなる。
「私が誰か分からないのね。」
「アニカ様におかれましては、ご機嫌麗しく存じます。お初にお目に掛かります。私は、ユリアーナ・アルテナと申します。」
「分かっているのなら、出自も今の身分も貴女の方が上なのだから、そんな礼をする必要なんてないのに。」
「ある国では子供が自身の親を敬い支え、親の心を安んじ、敬意を示すことと説くそうです。」
アニカは首を傾げる。
「自身の親ではなくても、子を持つ人は偉大だと思うのです。私は元より体が丈夫で娘を二人、何事もなく授かることが出来ましたが、私の母は妹を産んだ際、出血も酷く命がけだったそうです。そして、三人目は体が耐えられるか分からないと言われたそうです。それも当然です。一人の人間が、同じ一人の人間を産み出すのですから。簡単な筈はありません。ですから、私は母であるだけでも心から尊敬を致します。」
‘ご自愛下さい’と立ち去ろうとしたユリアーナをアニカは呼び止める。
「貴女は嫌ではないの?」
「何がでしょうか?」
「貴女は結婚する前はとても誇り高かったのに、今は小さな場所に縛られているように見える。」
∴∵
「あまり口うるさくは言いたくないのだけれど、あなたたちは上手くいっているの?」
ブラウェルス家のコンサバトリーで、夫人のクラシーナはウィルヘルミナとお茶を飲んでいる。
「あら、お義母様。ご心配頂きまして感謝いたします。そう言えば、お義母様の生家のハルセマ家ですが、そこのご令嬢が兄のところにメイドとして雇われていると聞きましたけれど。」
優しく微笑むウィルヘルミナに、クラシーナも喜色を露わにする。
「えぇ。王太子妃のアンドレーア様の紹介でそのように。」
「そうでしたか。母の…。」
「えぇ。良いお話しを頂いたと、兄も喜んでいたわ。」
「末端の男爵家では手付きから後妻の座を…なんて事を企むしか辺境伯家、ましてや公爵家には嫁げませんものね。」
ウィルヘルミナは、笑顔は変えないままで、優美で洗練された所作で紅茶を口にする。
「メイドから手付きになれば、結婚の費用なども必要ありませんし、上手くすれば、正妻と同じ扱いをしてもらえますものね。良いお話しがあって、お嬢様もお喜びでございましょうね。」
寒い冬の太陽のような暖かな笑顔が、クラシーナの背筋を寒くする。
「お義母様、私たちのことはどうぞお構いなく。私たちは私たちの夫婦の形がございますの。そんな事よりこの紅茶、美味しゅうございますわ。どちらの茶葉で?」
「先日、王太子妃殿下にお会いした時にウィルヘルミナと一緒に飲むようにと頂いた茶葉です。」
「あらっ、母の。」
ウィルヘルミナは再び口を付けようとしていたカップをテーブルに置いて、スクッと立ち上がった。
「私、ユリアーナお義姉様にお手紙をしたためなくてはいけないことを忘れておりました。それでは失礼致しますね、クラシーナ様。」