薄氷の城
第 16話 風波
年が明け五月。アルテナの庭でユリアーナは友人たちとお茶の時間を過ごしていた。
「ユリアーナ様にお勧め頂いた本、本当に面白く読ませて頂きました。」
今日の顔ぶれは、ウィルヘルミナとその旧友二人。一人は財務長官をしているヨエル・ヤンセン伯の娘、エンマ。もう一人は司法長官のコルネリウス・ファルハーレン伯の娘、パウリーン。
パウリーンは嬉しそうに話すと、ボーの用意したハーブティーを一口飲んだ。
「お気に召して頂けた様で嬉しく思います。」
「夫は女が本を読むなんてと言うのですけれど、教えて頂いた本は子ども向けだと言う事もあってあまりうるさくは言われませんでした。」
「あの本は子ども向けですが、ノティア地方の民間伝承が元になっていて、読み手に様々なことを考えさせてくれます。大人でも十分に読み応えがあって…」
ユリアーナが話している途中に、一瞬ウィルヘルミナの顔色が曇った気がした。しかし、表情は直ぐに戻ったので話し続けていると、彼女の隣に座っていたエンマが不快そうな表情になった。ユリアーナは振り返ってその視線の方を見ると、イルセがメイドを連れて散歩していた。
ユリアーナはみんなに一言断わって席を立った。
「イルセ、具合が良くないのでしょう?部屋で休んでいた方が…」
「いいえ。奥様。ただのつわりです。ヴィレム様が言うには、妊娠中に運動を欠かさなければ、壮健な男の子が産まれるそうです。ですから・・」
イルセは明らかに具合が悪そうに話す。
「ネス、イルセをお部屋に連れて行きなさい。」
ユリアーナはイルセ付きのメイドに指示をすると、ボーの方へ向いた。
「お母様が送ってくれた果物が井戸で冷やされているでしょう?あれをイルセへ少し分けて差し上げて。イルセ、食べられないかも知れないけれど、喉を通るようなら少し果物を食べて、お部屋でゆっくり…」
「いいえ。大丈夫です。日に三度、肉を食べる様にしています。野菜や果物など食べると女が生まれてしまいます。果物はいりません。」
イルセの強く拒否を示す目に、ユリアーナは小さくため息を吐く。
「…。無理はだめよ。とても顔色が良くないわ。部屋に、」
「ユリアーナ様は私が男の子を産むのが怖いのでしょう?女しか産めず、アルテナ公爵家での役割が果たせていないから。私が男子を産めばこの子は確実に跡取り、女しか産めないあなたはこの家にいらなくなる。私は絶対に男を産みます。」
ユリアーナは、優しく微笑んだ。
「えぇ。そうね。貴女の身籠もった子はこの家の大事な跡取りかも知れない。だから私は貴女に体を大切にして欲しいの。今の状態が貴女やお腹の子のために良いとは思えないわ。」
イルセはとうとう嘔吐し、ユリアーナのドレスを汚してしまった。
「イルセ様、今日はもう戻りましょう。」
イルセは力なく頷いたが、力のこもった視線をユリアーナに向ける。
「私は絶対に男を産みます。」
イルセはネスに寄りかかる様にして戻っていった。
「奥様。」
凄い剣幕で話しかけてきたのは、ボーだった。
「何?」
「なぁに?って…なぜ、あの失礼な物言いを注意されないのですか。」
「イルセの言う通り、彼女が身籠もった子はこの家の跡取りになるかも知れないもの。健康に生まれてきて欲しいじゃない?」
ユリアーナは汚れてしまった自分のドレスを見た。その姿を見てボーは一つため息を吐いた。
「ユリアーナお嬢様、お召し替えに参りましょう。」
「ウィルヘルミナ、少し外すわね。」
彼女がニッコリと笑って頷くのを見て、近くのメイドを呼んだ。
「奥様、何か御用でしょうか。」
「皆様に新しいお菓子とお茶をご用意して。」
「はい。畏まりました。」
「ボー、呼び方が戻っているわよ。」
「昔からお変わりないので、つい。」
ユリアーナはボーにスカートの裾を持ってもらい、部屋に戻った。
∴∵
「ヘンリエッテ、これを処分して頂戴。」
「畏まりました。」
ルーセは、侍女のヘンリエッテに一通の手紙を渡した。送り主はウィルヘルミナだった。
ヘンリエッテが部屋を出て行ったのを見計らい、侍従のクンラートは話しかけてきた。
「陛下、いかがされましたか?」
「何でもないのよって言っても、クンラートには分かってしまうわよね。」
「手紙をお読みになっている時から、陛下の表情が険しくなっていましたので。」
「私は表情が変らない事で広く知られているはずなのに、敵わないわね。王太子妃がヴィレムのところに男子が産まれないことで大騒ぎしているみたいでね、自分の家門の末端貴族の娘をヴィレムに充がったようなの。」
「まだ、ユリアーナ様はお若く、二度のご出産も無事に済まされましたし…」
「しかも、その娘がどうやら懐妊している様だと、ウィルヘルミナからよ。」
ルーセは、苦笑いの様な表情を作る。
「あんなにも陛下に懇願してヴィレムと結婚させて…フェルバーンはどう思っているかしらね。ゾフィーもどれほど怒っているか。」
頬杖をついて空を睨む。
「陛下は昔から、ブラウェルスの人間に甘くていらっしゃるから…鼻持ちならない虫が次から次へと湧いて出てくる。」
∴∵
フェルバーン家では、夕食も終わり、居間でエルンスト、ゾフィー、ヨハンが食後のお茶を嗜んでいた。ドロテアは第二子を妊娠中で、今回もつわりが酷く寝室で休んでいる。
「では、アルテナ家の次女マリアンネとの縁組みを打診しようと思っているの?」
「はい。ドロテアも賛成してくれています。」
「我が家ならば、公爵家とも不釣り合いとはならないが…」
「僕もドロテアもユリアーナの子が将来的にこの家を支えてくれれば嬉しいと思っています。」
エルンストとゾフィーは視線を合わせる。
「父さんや母さんには本当に感謝をしています。僕をこの家の家族として迎えてくれ、愛してくれた。だけれど、千年以上も受け継がれた大公の血をこの家から途絶えさせる訳にはいきません。」
「そんなことなど気にしなくて良い。この家を守る気持を持っていてくれさえすれば、血など大した問題ではないんだよ。」
エルンストの眼差しは、ヨハンが小さかった頃と変わらず今も優しい。ヨハンはこの優しい眼差しに幾度も守られてきた。
「それだけではありません。もう一つの理由は…あのユリアーナ姉さんに育てられる子だからです。きっと、素敵な女性になると思います。是非とも、僕の息子と縁組みさせたい。」
「そうか…まぁ、あちらがなんと返事をするか分からない状態で、私たちだけで騒ぐことでもなかったか。」
ゾフィーは、少し躊躇いながら口を開く。
「旦那様、それならきっと私たちが望む返事が来ると思いますわ。」
「君は、ヴィレム様の考える事がわかるのかい?」
「えぇ。まぁ、考えが分かるわけではないですけれど…ヴィレム様は、エフェリーンやマリアンネの事など興味はないのですもの。」
エルンストとヨハンはゾフィーに伺う様な視線を送る。
「先日、突然あの子から懐妊したから、この家で出産させて欲しいと手紙が参りました。詳細が書かれていなかったので、ボーに何があったのかと手紙を書きました。そうしましたら、王太子妃殿下がヴィレム殿下に妾を充がったのだと返事がきました。それで、今はその娘が懐妊中で、ヴィレム殿下はその娘に男子を産ませようとあれこれと世話を焼いているそうで、ユリアーナの元に居ることがないそうなんです。」
「そんな状態だと、何故言わなかった。」
「王太子殿下とは昔なじみでございましょう?お二人の関係に差し障りがあってはいけないと思いまして。ただ、あの子は今回もつわりが殆どないらしく、懐妊のことは回りにはまだ気が付かれていない様なのですけれど。」
ゾフィーは、物憂い顔をする。
「妾の懐妊に王太子妃殿下も大層喜ばれて、お祝いも大がかりにやっているようで。ユリアーナは自身の懐妊のことを言い出せなくなってしまった様なのです。ボーが言うには、妾の娘と同じ頃の出産になりそうだと。それで今回は里帰りで出産したいと言い出したのではないかと、書かれておりました。」
「普通ならその彼女の方が里帰りするもので、姉さんは城での出産になるのでは?」
「その娘…イルセと言うらしいのですが、彼女は男爵家の出身で、生家には彼女が里帰りしても分娩用や、ヴィレム殿下用の待機部屋などを用意できないそうなの。」
「だからって、何故姉さんが…それではまるで、姉さんの方が側妃のような扱いではないですか。」
三人はあまりのことに言葉を失った。
「ユリアーナ様にお勧め頂いた本、本当に面白く読ませて頂きました。」
今日の顔ぶれは、ウィルヘルミナとその旧友二人。一人は財務長官をしているヨエル・ヤンセン伯の娘、エンマ。もう一人は司法長官のコルネリウス・ファルハーレン伯の娘、パウリーン。
パウリーンは嬉しそうに話すと、ボーの用意したハーブティーを一口飲んだ。
「お気に召して頂けた様で嬉しく思います。」
「夫は女が本を読むなんてと言うのですけれど、教えて頂いた本は子ども向けだと言う事もあってあまりうるさくは言われませんでした。」
「あの本は子ども向けですが、ノティア地方の民間伝承が元になっていて、読み手に様々なことを考えさせてくれます。大人でも十分に読み応えがあって…」
ユリアーナが話している途中に、一瞬ウィルヘルミナの顔色が曇った気がした。しかし、表情は直ぐに戻ったので話し続けていると、彼女の隣に座っていたエンマが不快そうな表情になった。ユリアーナは振り返ってその視線の方を見ると、イルセがメイドを連れて散歩していた。
ユリアーナはみんなに一言断わって席を立った。
「イルセ、具合が良くないのでしょう?部屋で休んでいた方が…」
「いいえ。奥様。ただのつわりです。ヴィレム様が言うには、妊娠中に運動を欠かさなければ、壮健な男の子が産まれるそうです。ですから・・」
イルセは明らかに具合が悪そうに話す。
「ネス、イルセをお部屋に連れて行きなさい。」
ユリアーナはイルセ付きのメイドに指示をすると、ボーの方へ向いた。
「お母様が送ってくれた果物が井戸で冷やされているでしょう?あれをイルセへ少し分けて差し上げて。イルセ、食べられないかも知れないけれど、喉を通るようなら少し果物を食べて、お部屋でゆっくり…」
「いいえ。大丈夫です。日に三度、肉を食べる様にしています。野菜や果物など食べると女が生まれてしまいます。果物はいりません。」
イルセの強く拒否を示す目に、ユリアーナは小さくため息を吐く。
「…。無理はだめよ。とても顔色が良くないわ。部屋に、」
「ユリアーナ様は私が男の子を産むのが怖いのでしょう?女しか産めず、アルテナ公爵家での役割が果たせていないから。私が男子を産めばこの子は確実に跡取り、女しか産めないあなたはこの家にいらなくなる。私は絶対に男を産みます。」
ユリアーナは、優しく微笑んだ。
「えぇ。そうね。貴女の身籠もった子はこの家の大事な跡取りかも知れない。だから私は貴女に体を大切にして欲しいの。今の状態が貴女やお腹の子のために良いとは思えないわ。」
イルセはとうとう嘔吐し、ユリアーナのドレスを汚してしまった。
「イルセ様、今日はもう戻りましょう。」
イルセは力なく頷いたが、力のこもった視線をユリアーナに向ける。
「私は絶対に男を産みます。」
イルセはネスに寄りかかる様にして戻っていった。
「奥様。」
凄い剣幕で話しかけてきたのは、ボーだった。
「何?」
「なぁに?って…なぜ、あの失礼な物言いを注意されないのですか。」
「イルセの言う通り、彼女が身籠もった子はこの家の跡取りになるかも知れないもの。健康に生まれてきて欲しいじゃない?」
ユリアーナは汚れてしまった自分のドレスを見た。その姿を見てボーは一つため息を吐いた。
「ユリアーナお嬢様、お召し替えに参りましょう。」
「ウィルヘルミナ、少し外すわね。」
彼女がニッコリと笑って頷くのを見て、近くのメイドを呼んだ。
「奥様、何か御用でしょうか。」
「皆様に新しいお菓子とお茶をご用意して。」
「はい。畏まりました。」
「ボー、呼び方が戻っているわよ。」
「昔からお変わりないので、つい。」
ユリアーナはボーにスカートの裾を持ってもらい、部屋に戻った。
∴∵
「ヘンリエッテ、これを処分して頂戴。」
「畏まりました。」
ルーセは、侍女のヘンリエッテに一通の手紙を渡した。送り主はウィルヘルミナだった。
ヘンリエッテが部屋を出て行ったのを見計らい、侍従のクンラートは話しかけてきた。
「陛下、いかがされましたか?」
「何でもないのよって言っても、クンラートには分かってしまうわよね。」
「手紙をお読みになっている時から、陛下の表情が険しくなっていましたので。」
「私は表情が変らない事で広く知られているはずなのに、敵わないわね。王太子妃がヴィレムのところに男子が産まれないことで大騒ぎしているみたいでね、自分の家門の末端貴族の娘をヴィレムに充がったようなの。」
「まだ、ユリアーナ様はお若く、二度のご出産も無事に済まされましたし…」
「しかも、その娘がどうやら懐妊している様だと、ウィルヘルミナからよ。」
ルーセは、苦笑いの様な表情を作る。
「あんなにも陛下に懇願してヴィレムと結婚させて…フェルバーンはどう思っているかしらね。ゾフィーもどれほど怒っているか。」
頬杖をついて空を睨む。
「陛下は昔から、ブラウェルスの人間に甘くていらっしゃるから…鼻持ちならない虫が次から次へと湧いて出てくる。」
∴∵
フェルバーン家では、夕食も終わり、居間でエルンスト、ゾフィー、ヨハンが食後のお茶を嗜んでいた。ドロテアは第二子を妊娠中で、今回もつわりが酷く寝室で休んでいる。
「では、アルテナ家の次女マリアンネとの縁組みを打診しようと思っているの?」
「はい。ドロテアも賛成してくれています。」
「我が家ならば、公爵家とも不釣り合いとはならないが…」
「僕もドロテアもユリアーナの子が将来的にこの家を支えてくれれば嬉しいと思っています。」
エルンストとゾフィーは視線を合わせる。
「父さんや母さんには本当に感謝をしています。僕をこの家の家族として迎えてくれ、愛してくれた。だけれど、千年以上も受け継がれた大公の血をこの家から途絶えさせる訳にはいきません。」
「そんなことなど気にしなくて良い。この家を守る気持を持っていてくれさえすれば、血など大した問題ではないんだよ。」
エルンストの眼差しは、ヨハンが小さかった頃と変わらず今も優しい。ヨハンはこの優しい眼差しに幾度も守られてきた。
「それだけではありません。もう一つの理由は…あのユリアーナ姉さんに育てられる子だからです。きっと、素敵な女性になると思います。是非とも、僕の息子と縁組みさせたい。」
「そうか…まぁ、あちらがなんと返事をするか分からない状態で、私たちだけで騒ぐことでもなかったか。」
ゾフィーは、少し躊躇いながら口を開く。
「旦那様、それならきっと私たちが望む返事が来ると思いますわ。」
「君は、ヴィレム様の考える事がわかるのかい?」
「えぇ。まぁ、考えが分かるわけではないですけれど…ヴィレム様は、エフェリーンやマリアンネの事など興味はないのですもの。」
エルンストとヨハンはゾフィーに伺う様な視線を送る。
「先日、突然あの子から懐妊したから、この家で出産させて欲しいと手紙が参りました。詳細が書かれていなかったので、ボーに何があったのかと手紙を書きました。そうしましたら、王太子妃殿下がヴィレム殿下に妾を充がったのだと返事がきました。それで、今はその娘が懐妊中で、ヴィレム殿下はその娘に男子を産ませようとあれこれと世話を焼いているそうで、ユリアーナの元に居ることがないそうなんです。」
「そんな状態だと、何故言わなかった。」
「王太子殿下とは昔なじみでございましょう?お二人の関係に差し障りがあってはいけないと思いまして。ただ、あの子は今回もつわりが殆どないらしく、懐妊のことは回りにはまだ気が付かれていない様なのですけれど。」
ゾフィーは、物憂い顔をする。
「妾の懐妊に王太子妃殿下も大層喜ばれて、お祝いも大がかりにやっているようで。ユリアーナは自身の懐妊のことを言い出せなくなってしまった様なのです。ボーが言うには、妾の娘と同じ頃の出産になりそうだと。それで今回は里帰りで出産したいと言い出したのではないかと、書かれておりました。」
「普通ならその彼女の方が里帰りするもので、姉さんは城での出産になるのでは?」
「その娘…イルセと言うらしいのですが、彼女は男爵家の出身で、生家には彼女が里帰りしても分娩用や、ヴィレム殿下用の待機部屋などを用意できないそうなの。」
「だからって、何故姉さんが…それではまるで、姉さんの方が側妃のような扱いではないですか。」
三人はあまりのことに言葉を失った。