薄氷の城

第 18話 歪み

「ヘンドリカはどうだい?」

 ヴォルテルが聞くと古くから勤めるメイド頭のサンドラは、目を瞑って首を振った。彼女はヴォルテルが物心つく前から仕えてくれている、ヴォルテルにとっては身内にも近い感覚だった。
 昨年の初めに第二子のマフダレーナを産むまでは、気分の浮き沈みはあったものの、会話は出来ていて、週の半分は普通に過ごしていたが、初夏あたりからは、起き上がる事もままならない状態になってしまった。ヘンドリカは具合の良いときはヴォルテルを寝室へ入れてくれるが、今は顔が見られることも数えられるほどになった。

「ヘンドリカが何と言おうと、二人目を望むのは良くなかったのかも知れないね。最近ではいつ顔をみても泣いていて、理由を聞いても話さないし…どうしたものだろう。我が家は他の家と違って母も姉も思ったことを真っ直ぐに言うからそれで傷ついたりしたんだろうか。」
「確かに、奥様もお嬢様も率直な物言いをなさいますが、人を傷付ける様なことをおっしゃる方たちではございません。もし、何かあるのでしたら、きっとそれ以外でしょう。」
「それならば、原因は僕かな。」
「いえ、そんな…」

 ヴォルテルは繕う様に笑って、冗談だよと言った。

「若奥様は、何かを怖がっている様なのですが、私共にはもちろん。ブラウェルス家から連れてきたアレッタにも何もお話しにはならないそうで。アレッタが言うには、我の強いご兄妹に挟まれ、昔からご自分の意見を主張されることの少ないお方だったようですが、この様に塞ぎ込む様な事は今までに一度もなかったと。」
「そうか、この様子ブラウェルス家は何か言ってきたか?僕の所に何か言ってくると思っていたが、特に何も言ってこない。父や母のところには来ていないか?」
「アレッタが、ご実家に連絡をした様なのですが、ブラウェルス家からは返事がなく…彼女曰く、若奥様は現夫人とのお子様らしいのですが、ブラウェルス辺境伯様は前妻とのお子様のドロテア様を溺愛されている様でして…実母の現婦人もトーマス様ばかりに気を掛けていらっしゃるご様子なのだそうです。」
「ヘンドリカの気鬱の原因が出産や子育てのことならば、義母上(ははうえ)に話しを聞いてもらうことが一番だと思っていたのだが…。」

 二人は顔を見合わせる。

「フェルバーンに嫁いだ妹のドロテアはどうだろうか?少しは気が落ち着いて、何か話す気になるだろうか?話さないにしても、少しは気が紛れるか。」
「アレッタに聞いてみましょう。」
「あぁ。呼ぶ事になったらヨハンとドロテアには私から連絡をするから。」
「はい。」
「来年、ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンへ王太子殿下が外遊に向われることになって、外務府の事務方として僕も随行する事になった。幾日かの滞在期間中には夜会なども行われるらしくて、ご夫人を同伴でとの話しだった。他国へ行くことなど、この先ないのだろうし、機会をもらえるのならば、ヘンドリカに他国を見せてあげたかったんだけど…。」
「外遊は、来年でございましょう?それまでには若奥様も落ち着かれる日もできますでしょう。」
「そうだと良いね。」


∴∵
 

 ブラウェルス家は大公国として独立した時からの忠臣で、世界大戦時には、先駆けしんがりを務めるなど武勇の誉れ高いことで国内では有名だったが、今は大きな争い事などなく、そんな名声も過ぐる日のものとなっている。

「旦那様。聞いていらっしゃいますか?」
「あぁ。聞いてるよ。」
「あの子には、この家の者だと言う意識が薄いのです。いつまでも王族の気分でいて、ブラウェルスの縁者とはお付き合いせずに…そんな覚悟しかないから子どもにも恵まれないのです。きちんと旦那様からウィルヘルミナへ言って下さい。」

 元々が武芸で興した家門であることで、男子優勢の家風だけが脈々と受け継がれている。今の当主フィリップも例に漏れることなく、今もクラシーナの話しに面倒くさいと言わんばかりな大きなため息を吐く。

「降嫁したと言っても、彼女は王女だ。しかも両陛下がご兄妹の中で一番に溺愛している孫娘。この事は貴族なら誰もが知るところだ。だからこそ、本来ならば、いとこ同士の結婚は望ましいとは言えないところ、何年もかけて陛下も殿下も口説き落としてトーマスと結婚させたんだ。お前は、その私の努力を無にする気か?」
「そうではありませんが、この家での女主人は私です。」

 フィリップはクラシーナの方を振り向くと、鼻で笑った。
 
「何が、女主人だ。男爵家ごときの取るに足らん者が。ステーフェンが身罷らず、後継者のままならクラウディアの後釜にさえなれなかったようなお前が、王女のウィルヘルミナの機嫌を損ねる様な事をしたのならばただでは済まさないぞ。」

 フィリップは大きな音を立てて扉を閉めて出て行った。


∴∵
 

「こんにちは。今日はひと束いくら?」
「エディット…今日は銀貨で二枚になっちまったよ。しかも、ひと束が前の時より少なくなってる。」
「そう。じゃぁ、銀二枚ね。」

 エディットは、薬草屋のフースに笑って銀貨を渡すが、今日は売り上げが少なく、小麦や肉などの最低限の食材を買ったら残りは銀貨が四枚。今薬草を買って、残りは銀貨二枚になってしまった。
 しかも、買った薬草ひと束は薬草茶三杯分、一日分しかない。

「フースさん。薬草はこれ以上高くなったら私に買えないから、私の分はもう取り置きしてもらわなくても構わないわ。これまで無理を聞いてくれてありがとう。」
「いいや。この薬草は熱や痛みに良く効くから、人気なんだけどね、こんな調子だからもう庶民には手が出せない高級品になってしまったよ。」
「また、別の薬草が必要になったとき寄りますね。」
「あぁ。その時はよろしく頼むよ。」

 エディットが山を登る足取りは重かった。エヴァリストの祖父ユーグは、とても腕の良い鍛冶職人だ。彼の作った農具は特に人気で、毎回ほぼ売り切れる。しかし、ユーグも少しずつ体の無理が利かない年になり、作れる数も減ってきている。それを手伝っていたのがエヴァリストだったのだが、魔獣に襲われてから不自由になった足は常に痛みがある様で、薬草茶を飲まなければ力仕事は難しい。時間をかけられれば良いのだが、鍛冶はタイミングが重要な仕事で、エヴァリストに合わせて待つことは出来ない。それで、ユーグが一人で仕事をしなくてはならず、出来上がる農機具も減ってしまった。

「エディット、帰ったのか。」
「おじいさん。薪を拾っていたの?私が持つよ。」
「いい。無理するな。山を登ってきたところなのに。それで、薬草は?」
「一日分が精一杯だった。フースさんにはもう買えないって言ってきた。」
「そうか。」
「薬草と食べ物買ったら、残りは銀二枚だけになっちゃった。材料費に足りないね。ごめんね。」
「お前が気に病むことじゃない。」

 二人で、表情を整えて、ドアを開けた。

「エヴァリストただいま。」

 返事はない。

「あれ?エヴァリスト?」
「水でも汲みに行ったのだろう。」

 共同の水場は、なだらかな山道を行ったところにある。場所が比較的近いので、エヴァリストは少ない量を時間をかけて運んでくる。無理をせずに寝ていて欲しいが、本来一番の働き手の自分が横になっているのを気にしているのも知っている。自分が出来る事はやりたいと思う気持ちも理解出来るので、二人とも叱って止めさせることもしない。

 しかし、日が暮れてもエヴァリストは帰って来なかった。

「おじいさん。来て。」

 ユーグがエディットの声の方へ行くと、エヴァリストの衣類の入っていたカゴを持っていた。

「エヴァリストの服がなくなってる。」
「どういうことだ。」
「…出て行っちゃったのかな。エヴァリスト、記憶がないのに…」
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