薄氷の城
モナハドール離宮を出発して数時間、夕暮れ時になった。
本日の宿はヴィラ一棟とその近くの宿を一棟貸し切りにしている。ヴィラは王太子妃ジュリアの実家が所有しているもので、こぢんまりとしてはいるが、建物と調度のバランスが良く整えられていた。
「ヴィットーリオ王子はどのような方でしたか?」
夕食も食べ終わり、寝室として割り当てられたヴィラの一室で、ユリアーナとヴィレムはワインを飲んでいた。
「王子もプリズマーティッシュへ留学の経験がおありで、プリズマーティッシュの事を色々と教えて頂いた。レオナール陛下の御落胤であるフェルナン殿とゲウェーニッチの王太子妃テレーザ殿下ともご学友だったそうだ。」
「ゲウェーニッチ王国もプリズマーティッシュへの留学を行っているのですか?」
「テレーザ殿下もレオナール陛下の御落胤で、強い魔力を持っているそうだから、魔術の勉強のため留学をされていたんだろう。お二人のお母上は、レオナール陛下の側妃のアリーチェ妃と言う方で、ゲウェーニッチの公爵令嬢だったそうだから、魔力の強さは保証付きなんだろうね。」
「アリーチェ妃のお産みになった王女様は、ゲウェーニッチに嫁がれているのですね。」
「アリーチェ妃の事を知っていたのかい?」
「マリーナ様のお祖母様がアリーチェ妃と又従姉妹でいらっしゃるそうで。」
「では、マリーナ様はフェルナン殿とテレーザ殿下とは遠縁にあたるんだね。」
「そのようです。お目にかかれることを楽しみにしていらっしゃいました。」
ヴィレムは、ユリアーナのグラスと自らのグラスにワインを注ぐ。ユリアーナがニッコリと笑って見せると、ヴィレムは幸福感に包まれる。
国交を絶っている国への外遊など、気の進まない公務であったが、結果的にユリアーナと二人きりの時間を十分に取れることになった。こうしてゆっくり話していると、彼女の知識が豊かであることがよく分かる。博識ではあるが、偉ぶるような所はなく、しかし、自然と自分が偏った見方をしていることに気付かされたり、一つの物事にも色々な見方や考えがあるのだと教えられる。そんな彼女を私は、男か女かの枠にはめ、女だから無知で浅はかだと偏見を持ち、少しでも自分の知らない話しをすると、知識をひけらかし自らの優位性を保とうとする行いだと思い込んで彼女を責めていた。その私の行いこそが、無知で浅はかであったのに。暗愚であるのは私の方だったのに。
今はこうしてワインを飲みながら一日のことを話し合うのが日々の楽しみでもある。その時間がなかったのは殆どは己のせいではあるのだが、計らずも与えられたこの時間をヴィレムは大いに享受していた。
「フェルナン殿は、持って生まれた魔力の強さに加え、養父で騎士団の団長だったジルベール公に鍛えられた剣捌きで学院内で行われる剣術の試合では、一学年の時に三位を取った以外は全て優勝。首席で卒業をしているそうだよ。」
「とても優秀な方なのですね。」
「今は騎士団の第一団隊の団隊長らしいのだが、そこは魔獣討伐の専門部隊なのだそうだ。」
「旦那様がずっと考えていらした、エシタリシテソージャに頼らない防衛組織を構築するための何か良いお話しが伺えるとよろしいですね。」
「あぁ。私もそう思っていた。防衛組織の理想を話したのは随分前だったのに、覚えていてくれたのか?」
「旦那様が熱心に取り組んでいることですから、忘れたりは致しません。今、旦那様の頭の中にある構想が、形になるように私も応援致します。何か私に出来る事があれば仰って下さいませね。」
ヴィレムは、ワインを飲もうと口元まで持ち上げていたグラスをテーブルに置き、隣に座っていたユリアーナの頬に触れた。
「ありがとう。…ユリアーナ…今更だとは思うんだが。……。」
ヴィレムは黙ったまま、ユリアーナの頬を親指で優しくさする。何か言いにくそうにしているヴィレムに、ユリアーナが口を開く。
「はい。なんでしょう?旦那様。」
「寝室には誰もいないし、人の目もない。」
「えぇ。」
「それならば、私のことは旦那様と呼ばずとも…名前で呼んで欲しいんだ。」
「ヴィレム様と?」
「いいや、ヴィムと…。様も付けなくて良い。」
ユリアーナは、自分の頬にあるヴィレムの手を自分の手と重ねた。
「わかりました。ヴィム。私のこともユリーと呼んで下さい。」
「エルンストは、ユリアと呼んでいなかったか?」
「父や母が私をユリアと呼ぶときは概して私を叱る時です。いつ聞いたのですか?」
ユリアーナは顔を赤くして恥ずかしそうに聞く。
「いつだったか…忘れてしまったけれど。ユリアと呼ばれるのは嫌か?」
「いいえ、旦・・ヴィムに呼ばれるのは嫌ではありません。」
ヴィレムは頬の手を離し、自分の手に添えられていたユリアーナの手を優しく握った。
「よかった。私の母も父も決して私を愛称で呼ぶ事はなかった。それが怒る時であっても、私は愛称で呼ばれるような親子関係が羨ましいよ。父母が呼ばなければ、私を愛称で呼ぶ人間はいないからね。」
「では、私が初めてでございますか?」
「あぁ。もちろん。」
ヴィレムは、ユリアーナの作った微笑みを見て、この微笑みを見たら世の男は全て彼女に惚れてしまうのではないかと思った。
「ヴィムが、お手紙を書いて下さるようになってから、私に沢山の事を教えて下さいましたね。」
「そんな、実のある内容などあっただろうか?」
「私は、ヴィムのお仕事のお話しも毎度興味深く伺っていますけれど、一番嬉しいのは、ヴィムの小さな頃の事を知ることです。それに、悩みや弱みも見せて下さるようになりました。」
ヴィレムは、少し赤くなりながら俯いた。
「私はそれがとても嬉しいのです。そうやって支え合う夫婦が私の理想でした。ヴィムが、何も話してくれないと悩みながら、私もヴィムに何もお話していませんでした。私に寄り添って下さって、ありがとうございます。自分の弱みを人に見せることは簡単ではありませんでしたよね。」
ヴィレムが握る自分の手を穏やかに見つめていたユリアーナの視線が、ヴィレムを真っ直ぐに捉える。
「私は今、とても幸せです。」
∴∵
ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンへ向う一行は、先頭をエパナスターシ、その後ろにエシタリシテソージャが続いていた。多くの騎士が毛並みの立派な馬に跨がり、その後ろを続く馬車も一台、一台が見事な装飾が施されたもので、威風堂々としていて華々しい馬車列だった。
モナハドール離宮を出発して十一日目、ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンとの国境の町に着いた。
関所は商人らしき人や、旅人らしき人たちで溢れていた。
「この関所は大変賑やかでございますね。奥様。」
「そうね。」
「プリズマーティッシュの王立学院の授業はエシタリシテソージャの言葉で授業をしているらしくて、プリズマーティッシュの人間はエシタリシテソージャの言葉を話せる人が多いらしい。しかも、エシタリシテソージャからの留学生も多いから商売人などもエシタリシテソージャの言葉が達者なのだそうだ。言葉の壁がないと商売なども気軽に出来るのだろうし、行き来が多くなるのだろうね。」
「商売人と言う事は、平民が他国の言葉を話せると言うことですか?」
「そのようだね。」
エパナスターシの貴族の殆どは、子供の頃からエシタリシテソージャの言葉を勉強している。しかし、平民でエシタリシテソージャの言葉を話せる者などいない。
少しの間待っていると、馬車が再び走り出した。とうとうゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンへ入国したようだった。
本日の宿はヴィラ一棟とその近くの宿を一棟貸し切りにしている。ヴィラは王太子妃ジュリアの実家が所有しているもので、こぢんまりとしてはいるが、建物と調度のバランスが良く整えられていた。
「ヴィットーリオ王子はどのような方でしたか?」
夕食も食べ終わり、寝室として割り当てられたヴィラの一室で、ユリアーナとヴィレムはワインを飲んでいた。
「王子もプリズマーティッシュへ留学の経験がおありで、プリズマーティッシュの事を色々と教えて頂いた。レオナール陛下の御落胤であるフェルナン殿とゲウェーニッチの王太子妃テレーザ殿下ともご学友だったそうだ。」
「ゲウェーニッチ王国もプリズマーティッシュへの留学を行っているのですか?」
「テレーザ殿下もレオナール陛下の御落胤で、強い魔力を持っているそうだから、魔術の勉強のため留学をされていたんだろう。お二人のお母上は、レオナール陛下の側妃のアリーチェ妃と言う方で、ゲウェーニッチの公爵令嬢だったそうだから、魔力の強さは保証付きなんだろうね。」
「アリーチェ妃のお産みになった王女様は、ゲウェーニッチに嫁がれているのですね。」
「アリーチェ妃の事を知っていたのかい?」
「マリーナ様のお祖母様がアリーチェ妃と又従姉妹でいらっしゃるそうで。」
「では、マリーナ様はフェルナン殿とテレーザ殿下とは遠縁にあたるんだね。」
「そのようです。お目にかかれることを楽しみにしていらっしゃいました。」
ヴィレムは、ユリアーナのグラスと自らのグラスにワインを注ぐ。ユリアーナがニッコリと笑って見せると、ヴィレムは幸福感に包まれる。
国交を絶っている国への外遊など、気の進まない公務であったが、結果的にユリアーナと二人きりの時間を十分に取れることになった。こうしてゆっくり話していると、彼女の知識が豊かであることがよく分かる。博識ではあるが、偉ぶるような所はなく、しかし、自然と自分が偏った見方をしていることに気付かされたり、一つの物事にも色々な見方や考えがあるのだと教えられる。そんな彼女を私は、男か女かの枠にはめ、女だから無知で浅はかだと偏見を持ち、少しでも自分の知らない話しをすると、知識をひけらかし自らの優位性を保とうとする行いだと思い込んで彼女を責めていた。その私の行いこそが、無知で浅はかであったのに。暗愚であるのは私の方だったのに。
今はこうしてワインを飲みながら一日のことを話し合うのが日々の楽しみでもある。その時間がなかったのは殆どは己のせいではあるのだが、計らずも与えられたこの時間をヴィレムは大いに享受していた。
「フェルナン殿は、持って生まれた魔力の強さに加え、養父で騎士団の団長だったジルベール公に鍛えられた剣捌きで学院内で行われる剣術の試合では、一学年の時に三位を取った以外は全て優勝。首席で卒業をしているそうだよ。」
「とても優秀な方なのですね。」
「今は騎士団の第一団隊の団隊長らしいのだが、そこは魔獣討伐の専門部隊なのだそうだ。」
「旦那様がずっと考えていらした、エシタリシテソージャに頼らない防衛組織を構築するための何か良いお話しが伺えるとよろしいですね。」
「あぁ。私もそう思っていた。防衛組織の理想を話したのは随分前だったのに、覚えていてくれたのか?」
「旦那様が熱心に取り組んでいることですから、忘れたりは致しません。今、旦那様の頭の中にある構想が、形になるように私も応援致します。何か私に出来る事があれば仰って下さいませね。」
ヴィレムは、ワインを飲もうと口元まで持ち上げていたグラスをテーブルに置き、隣に座っていたユリアーナの頬に触れた。
「ありがとう。…ユリアーナ…今更だとは思うんだが。……。」
ヴィレムは黙ったまま、ユリアーナの頬を親指で優しくさする。何か言いにくそうにしているヴィレムに、ユリアーナが口を開く。
「はい。なんでしょう?旦那様。」
「寝室には誰もいないし、人の目もない。」
「えぇ。」
「それならば、私のことは旦那様と呼ばずとも…名前で呼んで欲しいんだ。」
「ヴィレム様と?」
「いいや、ヴィムと…。様も付けなくて良い。」
ユリアーナは、自分の頬にあるヴィレムの手を自分の手と重ねた。
「わかりました。ヴィム。私のこともユリーと呼んで下さい。」
「エルンストは、ユリアと呼んでいなかったか?」
「父や母が私をユリアと呼ぶときは概して私を叱る時です。いつ聞いたのですか?」
ユリアーナは顔を赤くして恥ずかしそうに聞く。
「いつだったか…忘れてしまったけれど。ユリアと呼ばれるのは嫌か?」
「いいえ、旦・・ヴィムに呼ばれるのは嫌ではありません。」
ヴィレムは頬の手を離し、自分の手に添えられていたユリアーナの手を優しく握った。
「よかった。私の母も父も決して私を愛称で呼ぶ事はなかった。それが怒る時であっても、私は愛称で呼ばれるような親子関係が羨ましいよ。父母が呼ばなければ、私を愛称で呼ぶ人間はいないからね。」
「では、私が初めてでございますか?」
「あぁ。もちろん。」
ヴィレムは、ユリアーナの作った微笑みを見て、この微笑みを見たら世の男は全て彼女に惚れてしまうのではないかと思った。
「ヴィムが、お手紙を書いて下さるようになってから、私に沢山の事を教えて下さいましたね。」
「そんな、実のある内容などあっただろうか?」
「私は、ヴィムのお仕事のお話しも毎度興味深く伺っていますけれど、一番嬉しいのは、ヴィムの小さな頃の事を知ることです。それに、悩みや弱みも見せて下さるようになりました。」
ヴィレムは、少し赤くなりながら俯いた。
「私はそれがとても嬉しいのです。そうやって支え合う夫婦が私の理想でした。ヴィムが、何も話してくれないと悩みながら、私もヴィムに何もお話していませんでした。私に寄り添って下さって、ありがとうございます。自分の弱みを人に見せることは簡単ではありませんでしたよね。」
ヴィレムが握る自分の手を穏やかに見つめていたユリアーナの視線が、ヴィレムを真っ直ぐに捉える。
「私は今、とても幸せです。」
∴∵
ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンへ向う一行は、先頭をエパナスターシ、その後ろにエシタリシテソージャが続いていた。多くの騎士が毛並みの立派な馬に跨がり、その後ろを続く馬車も一台、一台が見事な装飾が施されたもので、威風堂々としていて華々しい馬車列だった。
モナハドール離宮を出発して十一日目、ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンとの国境の町に着いた。
関所は商人らしき人や、旅人らしき人たちで溢れていた。
「この関所は大変賑やかでございますね。奥様。」
「そうね。」
「プリズマーティッシュの王立学院の授業はエシタリシテソージャの言葉で授業をしているらしくて、プリズマーティッシュの人間はエシタリシテソージャの言葉を話せる人が多いらしい。しかも、エシタリシテソージャからの留学生も多いから商売人などもエシタリシテソージャの言葉が達者なのだそうだ。言葉の壁がないと商売なども気軽に出来るのだろうし、行き来が多くなるのだろうね。」
「商売人と言う事は、平民が他国の言葉を話せると言うことですか?」
「そのようだね。」
エパナスターシの貴族の殆どは、子供の頃からエシタリシテソージャの言葉を勉強している。しかし、平民でエシタリシテソージャの言葉を話せる者などいない。
少しの間待っていると、馬車が再び走り出した。とうとうゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンへ入国したようだった。