早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 305号室の扉の前で矢野一輝は身を屈めていた。彼は里奈の部屋の鍵穴にとある犯罪道具を差し入れている。

『早河さーん。俺がブタ箱行きになったら早河さんのせいですよー。これじゃあマジに真紀ちゃんに手錠かけられちまう』

耳に嵌めたイヤモニに向けて矢野はぼやいた。

{小山に逮捕されるなら本望だろ}
『いやー、どうせなら手錠じゃなくて俺の左手薬指に真紀ちゃんとお揃いの指輪を嵌めて、俺の子孫を真紀ちゃんに種付けしてからブタ箱に行きたい……』
{アホ。それを小山に言ったら蹴られるぞ}
『間違いなく蹴り飛ばされそう。真紀ちゃん見ると俺の頭は下ネタで埋まるんですけどね。あー……真紀ちゃんのことだから呆れて溜息しか出ないか』

矢野は口と同時に手を動かしている。聞こえてきたのは真紀ではなく早河の溜息だ。

{お前がブタ箱に行ったら差し入れくらい持っていってやるよ}
『だからブタ箱には行きたくねぇって! 最近犯罪じみた事ばっかりやって俺の身の上かなりヤバイなぁ』
{何を今さら。ブタ箱に行きたくないならさっさとやれ。マジシャン矢野くんならピッキングはお手のものだろ?}
『もちろんマジシャン矢野くんにできないことはない! 俺はやったるぜ!』

 なぎさは三階の廊下で見張りをしつつ、イヤモニ越しに繰り広げられる早河と矢野の会話を聞いていた。

(ピッキングして不法侵入しようとしてるこの状況でも緊張感がまったくないのは所長と矢野さんの会話のせいよね。マジシャン矢野くんって何……)

{唯一できないことは小山を落とせないことだな}
『テンション下がること言わないでくださーい。それにピッキングなら早河さんもできるくせに』
{ピッキングは俺よりお前の方が巧いからな。マジシャン矢野くんの特技はピッキングとハッキングだろ}
『履歴書には書けねぇ特技だなぁ。ついでに言うとクッキングも得意ですよ。俺に不可能はなーい!』

(所長も矢野さんもピッキングできるってあの人達何者なのよ!)

 いつ人が来るかもしれない。見張りのなぎさだけが手に汗握って鍵が開くのを待っていた。

『お、開いた。やればできる使える男、それがマジシャン矢野くんさ。おーい。なぎさちゃーん』

矢野に小声で名前を呼ばれてなぎさは小走りに305号室まで急ぐ。早河はマンションの前で待機している。家主の佐々木里奈が帰ってきた時の見張りのためだ。

「どうして私が不法侵入しなくちゃいけないんですか……」

 なぎさは矢野がピッキングで鍵を開けた305号室の部屋のドアノブを白い手袋をつけた手で恐る恐る回す。ドアの隙間から玄関が見えた。

{女の部屋のガサ入れは女に任せるのが適任だ。いつ家主が帰ってくるかわからない。素早くやれよ}
「はい……」

 気が進まなくてもこれは仕事だ。なぎさと矢野は玄関で靴を脱いで部屋に上がった。
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