早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
6月18日(Thu)

 昨日、一昨日の月夜の晴れ間が嘘のような大雨の夜だった。馬込《まごめ》駅の出口を出た木村隼人の傘に大粒の雨が当たる。

 駅を出てすぐにあるコンビニで夕食用に生姜焼き弁当を購入した。最近は少しだけ自炊の腕が上がってきたと自負しているが、心身が疲れている今は料理を作りたい気分ではない。

仕事が忙しいだけならこんなに疲れはしない。隼人の心と身体を疲弊させているのは、すべて美月が巻き込まれた例の事件のせいだ。

 止まない雨に苛立ちを覚える。苛立つのは本当に雨のせい?

 環七通りを逸れて自宅に続く道を歩いていると髪の長い女が道の途中に立っていた。透き通ったビニール傘の柄をくるくる回して、水溜まりの縁をふらふら歩く傍目にも奇妙な女だ。

女の顔がこちらを向いた時、隼人は心臓が止まるかと思った。髪の長い女は傘の柄を回しながら近付いてきた。

『……里奈?』
「お帰りなさい」

 隼人が知る佐々木里奈は茶髪のショートヘアーだった。彼の認識では大学時代の里奈はずっとその髪型だった。

見慣れないロングヘアーの里奈は大学時代の時と変わらず派手な風貌だった。大学の時よりも一段と化粧が濃くなった印象だ。

『こんなところで何してる?』
「隼人に会いたくて待ってたの」

 つけまつげをつけた目元が愛らしく微笑んだ。
仮にも過去に身体の関係を結んだ相手だ。
里奈を可愛いと思ってもいた。しかしそれも昔の話。今の彼女には、男として何の感情も沸かない。

 あと少し行けば自宅がある。里奈がこの場所に現れたのなら彼女に自宅を知られていると言うことだ。状況は逼迫《ひっぱく》している。

「ここに来る途中に公園見つけたんだ。ね、そこで話さない?」
『……わかった』

話をするつもりもなかったが、この状況を打開するには相手を刺激しない方がいい。

 里奈の後ろを一歩引いて歩く。タイミングを見計らって上野に連絡しよう。
彼女に気付かれないようにビジネスバッグから取り出した携帯電話をスーツのポケットに入れた。

歩きながらこの状況を切り抜けるシミュレーションを頭に描く。いくつか思い付いた案があった。気は進まないが最悪の場合は腕力でねじ伏せる覚悟を決めた。

 雨の降る公園に人の気配はない。ぬかるんだ地面を踏み締めて二人は木材で作られた東屋《あずまや》に入った。東屋の壁に立て掛けた二本の傘から流れ落ちる雨水が水溜まりを作る。

隼人はビジネスバッグとコンビニの袋をベンチに置いた。里奈の荷物は小さなハンドバッグのみ。
指名手配の身で逃亡しているわりには身軽な装備だ。あんなに小さなハンドバッグでは武器も入らないだろう。

『青木が殺されたよな。ニュースになってた。横浜のホテルで見つかったって』
「そうみたいね」

 平然と答える里奈の口調はまるで他人事だ。青木渡の殺害に関しては、里奈が殺害に協力した嫌疑がかけられていると上野警部に聞いている。
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