千代子と司 ~スパダリヤクザは幼馴染みの甘い優しさに恋い焦がれる~
会話の終わりを感じ取り、司に浅く一礼をしてから書類を片手に数字の動向を見せる細身の背の高い男は「どうにも伸び悩んじゃって。兄貴の考えも聞きたいんです」とそのまま話し込みはじめてしまう。
頭は上げたがまだ不安げにしている年配の男に対し、司に代わって話し掛けたのは司のデスクのそばで書類整理をしていた恰幅の良い大柄な男だった。歳も四十代程度、と近しかったが「話は終わりだ。見ての通り若は忙しい」ときっぱりとした口調で退室を促す。司の目の前にいた男はその言葉に今一度「宜しくお願いします」と深々と一礼をして去っていった。
男が退室したのを確認すると“兄貴、若”と呼ばれた司は「親父が今も個人的に持っている店の中に料亭があっただろう」と差し出された書類を確認しながらもそれとは全く関係のない、ごく個人的な話を始める。
「お席を作りますか」
「いや……まだ」
「ああ、若が私用の端末を出しているとは珍しい。もしや昨日、ドライバーに尾行調査を依頼された女性と?」
「誘ってもいない、が……まあ、な」
「若が興味を持たれる女性とは気になりますな」
司に対し親しげに“若”と呼んで会話を交わす恰幅の良い大柄な男の年齢は一回り以上は上だったが司に対して敬語であり、司もその扱いに対して何も構わずにいた。
「親父がくたばるまでは大人しくこの稼業を続けようかとも思っていたんだが」
「若はまだ、組を閉じてしまうおつもりで」
「……お前たちの処遇については悪いようにはしない。表も裏も、親父から預かったこの座を全うしたら……ただ、考えていたよりもその時期が少し早まるかもしれない、が」
先ほどよりも深く、背中を革張りのビジネスチェアに預ける司に“兄貴”と親しげに呼んでいた細身の方の男が口を開く。
「これから先、本家今川組の組長……いや、関東広域連合の会長にも成り得る兄貴が誰よりも一番、ヤクザをやる気が無い人なんだもんなあ。じゃあ誰がアタマやるんだ、って話ですよ」
「いっそのこと、今すぐ上まで上り詰めて連合自体も全て解散させてしまおうか。吸収し、元あったモノを更地に帰すのは私の得意分野だ」
「うーん、それもまた“野心”ってやつですか?」
そうだな、と言う司の年齢は三十四歳になったばかりであった。ただ彼の物言いや表情は実年齢よりも若干、老けている。そうさせているのは自らに付きまとう暗い影の存在……ヤクザの子、として生まれてしまった業のせいだと司自らも承知していた。
そんな彼であってもごく身近なこの二人の部下にだけには心を許しており「少し休憩をしようか」と持ち掛ける。
・・・
昼食時を過ぎ、公園で暫くのんびりとしていた千代子は片づけを済ませると自宅アパートへと帰っていった。
久しぶりに日陰と言えども日差しに当たった頬はぽっと温かく火照っており、なんだか心も軽い。まだおやつ時の三時だったが贅沢にも今からシャワーを浴びて軽く缶チューハイのでも一本開け、そのままベッドに転がってしまおうかと千代子は企む。
昼間に交わした司からの返信は未だに無かった。けれど私的な、他愛もないやり取りだったので仕事が忙しいのだろう、と勝手に解釈をしておにぎりの写真を送ってしまった画面を開くともう一度、やり取りを指先でなぞる。
当たり障りのなさが今は心地いい。
本当は話を聞いて貰いたい気持ちもそれなりにあったがそれはきっといずれ、出来るだろうから。
少し汗をかいた体をシャワーで流し、気軽な部屋着の黒いコットンワンピースを頭から被ると冷蔵庫からさくらんぼ味の缶チューハイを一本、取り出す。
ソファー代わりのシングルベッドに腰掛け、最近ほとんど見ていなかったテレビを点ければ昼下がりのロードショーの終盤が映し出されていた。
そう言えば見たかった映画も結局は見に行けずじまいだったな、とそれがもう何の映画だったのかすら記憶が曖昧になっている自分に嫌になる。
(やっぱりお酒が入るとダメなタイプ、かも)
アルコールで失敗したことはないけれど。
千代子はうーん、と唸りながら手にしていた飲み掛けの缶チューハイを簡素なローテーブルに置いてベッドに横になる。
よく歩いて、よく食べて、ちょっと嬉しい事も途中で挟んでシャワーで汗を流して。今日はもうそれだけで自分に花丸を付けたっていい。
テレビに流れているのは古い海外の恋愛映画。どこか退屈さすら感じてしまうようなクラシカルなその恋模様を横になって眺めている内に千代子はいつの間にか眠ってしまっていた。
まだ明るかった三時過ぎ、昼寝をしてしまったせいで既に夕方を迎えている小さな部屋。テレビの明りの方が勝り、のそのそとベッドから起きた千代子は部屋の照明を点ける。
小一時間ほど横になるつもりだったがすっかり二時間も眠ってしまっていた夕方五時。
(これは夜、眠れないかも)
飲み掛けの中身がもったいないな、と思いつつも仕方なく少し残っているお酒を片付けて夕飯をどうするか冷蔵庫を開ける。ごそごそと食材を確認していればローテーブルに置いてあったスマートフォンからメッセージの受信を知らせる通知音が一つ、鳴る。
ちょっと今は手が離せないからまたあとで、と使いかけの人参や大根があったので野菜鍋にしようと手にしていた所で今度はそのメッセージアプリを介した音声通話の着信を知らせる音が鳴る。野菜を抱えていた千代子は慌ててそれを作業用テーブルに置いてスマートフォンを手に取れば『司さん』の文字。
一瞬どきっと心臓が跳ねたがコールが切れてしまう前に通話ボタンを押す。