早河シリーズ完結編【魔術師】
『静香ちゃんに……俺のこと何か話した? 昔のこととか……』
間を置いて松田は尋ねた。隼人はキーを打つ手を止めて横目で彼を捉える。松田も雑誌のページをめくる手を止めていた。
開かれた文芸雑誌のページは若手作家四人が、忘れられない恋をテーマに綴ったアンソロジーの特集ページだ。
『特に何も。静香ちゃんに聞かれてもいないからな』
『そう……』
『大学時代の美月とのゴタゴタを静香ちゃんには知られたくない、そんなようなこと思ってるのか?』
隼人が直球で投げてくる球を打ち返せるほど、松田は器用ではない。隼人の言葉は心の中心部に深く突き刺さる。図星だった。
『鋭いねぇ』
『顔に書いてある』
『そんなこと顔に書いた覚えはないんだけどな。でもあの一件を静香ちゃんには知られたくないのは確か。それがどうしてかはわからない』
『静香ちゃんが知る必要もないだろ。ヒロと美月のことは、あの時限りで終わったことだ』
隼人は普段通りのポーカーフェイスで澄ましている。妻のかつての浮気相手とその事実について話していても、彼は平静を保っていた。
美月のことで隼人が自信を失って取り乱す相手は松田ではなく、別の男だ。
隼人のライバルに選ばれなくて悔しいような憎らしいような、ホッとしたような、自分が絶対に太刀打ちできない相手と築いた奇妙な友情も、ここまで長く続くとは思わなかった。
『終わったこと……だと思ってた。ずっと……。この前も言ったけど、美月が選んだ相手が隼人くんだから、俺は美月の幸せを側で見守っていられる。俺はどう足掻いても隼人くんには勝てない』
松田が本音を呟く。
『ヒロは俺を過大評価してる。俺はそんなに出来た人間じゃねぇぞ』
『そんなことはない。もし俺が隼人くんの立場だったら、美月があの人に会いに行ったり手紙を出すことも許せなかったと思う』
松田が“あの人”と口に出した時にだけ隼人は口元を斜めにした。隼人の妻の美月は今月初旬に東京拘置所に赴いて、ある人物と面会した。
その人物こそ、隼人が12年ライバル視している男だ。
『美月が隼人くんと別れて俺のものになって欲しいとは思わない。でもいつまでも俺は美月に恋焦がれてる。静香ちゃんに惹かれてる一方で、美月を忘れることもできない。身勝手で嫌になる』
隼人は松田の独白に耳を傾ける。彼は窓の外の夕焼けに目を細めた。
隼人にも忘れられない夕焼けがある。忘れられないラムネ味の青い飴。9年前の夏のはじまり、忘れられないサヨナラの瞬間。
『ヒロの気持ちはわかる。一度惚れたら、それをゼロにはできない。恋をなかったことにはできないんだ。お前が美月を忘れられないように、美月も俺も……絶対になかったことにはできない、忘れたくない恋の過去を抱えてるんだよ』
『忘れたくない恋の過去か……』
人生は忘却と追憶の積み重ねだ。忘れて思い出して、また忘れて、思い出して、また忘れられない。
間を置いて松田は尋ねた。隼人はキーを打つ手を止めて横目で彼を捉える。松田も雑誌のページをめくる手を止めていた。
開かれた文芸雑誌のページは若手作家四人が、忘れられない恋をテーマに綴ったアンソロジーの特集ページだ。
『特に何も。静香ちゃんに聞かれてもいないからな』
『そう……』
『大学時代の美月とのゴタゴタを静香ちゃんには知られたくない、そんなようなこと思ってるのか?』
隼人が直球で投げてくる球を打ち返せるほど、松田は器用ではない。隼人の言葉は心の中心部に深く突き刺さる。図星だった。
『鋭いねぇ』
『顔に書いてある』
『そんなこと顔に書いた覚えはないんだけどな。でもあの一件を静香ちゃんには知られたくないのは確か。それがどうしてかはわからない』
『静香ちゃんが知る必要もないだろ。ヒロと美月のことは、あの時限りで終わったことだ』
隼人は普段通りのポーカーフェイスで澄ましている。妻のかつての浮気相手とその事実について話していても、彼は平静を保っていた。
美月のことで隼人が自信を失って取り乱す相手は松田ではなく、別の男だ。
隼人のライバルに選ばれなくて悔しいような憎らしいような、ホッとしたような、自分が絶対に太刀打ちできない相手と築いた奇妙な友情も、ここまで長く続くとは思わなかった。
『終わったこと……だと思ってた。ずっと……。この前も言ったけど、美月が選んだ相手が隼人くんだから、俺は美月の幸せを側で見守っていられる。俺はどう足掻いても隼人くんには勝てない』
松田が本音を呟く。
『ヒロは俺を過大評価してる。俺はそんなに出来た人間じゃねぇぞ』
『そんなことはない。もし俺が隼人くんの立場だったら、美月があの人に会いに行ったり手紙を出すことも許せなかったと思う』
松田が“あの人”と口に出した時にだけ隼人は口元を斜めにした。隼人の妻の美月は今月初旬に東京拘置所に赴いて、ある人物と面会した。
その人物こそ、隼人が12年ライバル視している男だ。
『美月が隼人くんと別れて俺のものになって欲しいとは思わない。でもいつまでも俺は美月に恋焦がれてる。静香ちゃんに惹かれてる一方で、美月を忘れることもできない。身勝手で嫌になる』
隼人は松田の独白に耳を傾ける。彼は窓の外の夕焼けに目を細めた。
隼人にも忘れられない夕焼けがある。忘れられないラムネ味の青い飴。9年前の夏のはじまり、忘れられないサヨナラの瞬間。
『ヒロの気持ちはわかる。一度惚れたら、それをゼロにはできない。恋をなかったことにはできないんだ。お前が美月を忘れられないように、美月も俺も……絶対になかったことにはできない、忘れたくない恋の過去を抱えてるんだよ』
『忘れたくない恋の過去か……』
人生は忘却と追憶の積み重ねだ。忘れて思い出して、また忘れて、思い出して、また忘れられない。