Deception〜私たちの恋の裏にはそれぞれの思惑が渦巻いている〜
 彼の外見、雰囲気に触れて、わけもなく強烈に惹かれるこの感情は、タレントやアーティストに抱くファン心理に似ている。スイーツプリンスの名前や年齢、人となりといったあれこれを知らなくても、勝手に憧れて勝手にときめいている。ゆえに推し活。

 恋などしている場合ではない。今の生活環境からは抜け出せないのだから。

 「お疲れ様でした」

 バックヤードで退勤処理をして着替えを済ませる。同じ時間帯で働いていた同僚に挨拶をしてから外へ出た。

 どんよりと分厚い雲に覆われた空を見上げて、つい嘆息がもれる。次は清掃の仕事だ。想乃は一度マスクを外し、目の前の青信号を渡り切った。

 駅付近にある雑居ビルを目指した。歩道を歩いている途中、ポロンと(はじ)ける音色が聞こえ、ふと足を止める。

 ストリートピアノだ。“どなたでもご自由に演奏できます”と書かれた看板が立てられている。

 つるりと光沢を帯びたグランドピアノに向かって鍵盤を(はじ)くのは、高校生ぐらいの女の子だった。彼女が奏でる音色を聴きながら、かつては自分もああして()いていたのだな、と過去に想いを馳せた。

 ーー「お母さんは想乃のピアノが一番好きよ。音がキラキラしてるもの」

 母の嬉しそうな声を聞いて父も「そうだね」と同意する。
< 8 / 480 >

この作品をシェア

pagetop