男装して婚約者を演じていたらお兄様に目をつけられてしまいました
「ってことで、これを届けるんだけど、せっかくだから世奈君も一緒にどう? いいっすよね、店長」
「もちろん。問題さえ持ち帰って来なければいいよ」

 店長は、キッチンゾーンに置いた椅子に座ってスマホで競馬を見ている。顔を向けることもなく、手でパッパと追い返すような仕草をしてその手をすぐに下ろした。

「じゃ、行こっか」
「はい」

 会議や打ち合わせ、忙しすぎて買いに行けない社員のために三時以降はデリバリーも行っているらしい。今回は、とある部署から部員全員分のドリンクの注文があったらしく、紙袋に二段にして入れた飲み物をキッチンワゴンに沢山並べてエレベータに乗る。

「こういう注文は珍しいんすよ。大抵4個とか、大人数だとホットコーヒーだけでポットなんすけどね。今日は、単品でこれだけの量頼んでくれたんで、結構売り上げに貢献って感じっす」

 どことなく嬉しそうに話す藻風君は、もう店長なんじゃないかと思う。いちバイトが、今日の売り上げを気にするなんて偉すぎるとしか言いようがない。

「あっ着いたっすね」

 キッチンワゴンを押している藻風君が降りやすいようにエレベーターの開くのボタンを押して安全に降りるのを待って降りると、ドラマで見るようなおしゃれな廊下と扉があった。

「こっちっす」

 藻風君についてき、来客用と思われる待合スペースを抜けてオフィスに入ると、沢山の人が忙しなく仕事をしていた。もし、両親が騙されることなく、あのまま大学を卒業して、内定をもらっていた会社に入社していたら、ここまでとは言わないまでも、私もあちら側にいれたのだろうか。

「大丈夫っすか?」
「え?」
「これからが本番すよ。心の準備、しておいてくださいね」
「はぁ」

 準備といっても配るだけだろうにと思っていた私は、この後、この気のない返事をしたことに後悔するのであった。

「お待たせしました」

 藻風君の声がオフィスに透き通るように響き渡ると、女性社員だけでなく、男性社員もウキウキとした表情を浮かべてこちらに向かってきた。
 藻風君の本番という意味がすぐに分かった。大量の注文イコール大量の人に注文した飲み物を渡すということだ。
 渡せど渡せど人が来る。一人一人が違う注文だから、どこにそのドリンクがあるか探しながら渡さなければならず、結構大変だ。あたふたしながら必死になんとか対応している横で藻風君は爽やかに軽い会話を交えながら渡していく。
 足手纏いにならないように、と思いながら渡していると可愛らしい女性が目の前に現れた。

「モカ、カプチーノとホットコーヒーです」
「えっと、モカとカプチーノとホットコーヒーですね」
「んふふ。違う違う。カプチーノとホットコーヒー」

 ん? モカって言わなかったか?

「ああ、モカさん。いつもあざっす。世奈君、この方モカさんって名前ね」
「ああ。すみません」
「んふふ。大丈夫だよ」

 自分の名前を言う必要あったんだろうか、なんて思おう私はまだ未熟なのだろうか。
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