男装して婚約者を演じていたらお兄様に目をつけられてしまいました
***

 頼人さんにブラックコーヒーを持っていった。自分でも何をしているのか分からない。お店に戻るエレベーターの中で藻風君が何か話してくれていたけれど、何を話していたか全く覚えていない。
 頼人さんが女性全員に甘くたって、別に私には関係ない。彼女や婚約者といっても全部『役』なんだし、ルココちゃんが大学を卒業すれば、私はその『役』から解放されて十分なお金をいただいて芹沢家とは縁が切れる。
 だから、別に頼人さんが女好きだって関係ないんだ。
 でも、ルココちゃん以外の女性に鼻の下伸ばして、好きでもない甘いコーヒーを笑って飲んで欲しくない。
 私は、咄嗟に藻風君に嘘をついた。提供する飲み物を間違えたのを今気づいたので自腹で弁償して持っていくと。ホットコーヒーを入れて、店のIDを持ってエレベーターに飛び乗り、頼人さんに連絡を入れて、頼人さんに渡し、モカさんが渡したコーヒーを奪った。
 エレベーターを待つ時間が嫌で、階段の踊り場まで降りてきた。
 私、何してるんだ?
 変に思われただろうか。そもそも頼人さんは、直接取りに来ていない。それなのに、私が砂糖とミルク入りのコーヒーを渡されたと知っているのはおかしいだろう。ストーカーのように見ていたってことになるじゃないか。
 最悪だ。最悪。

 店に戻ると、藻風君は店長から隠れるように私に近づいてきて耳元で囁く。

「世奈君、間違えたなんて嘘っすよね」
「え?」
「だって、数はあっていたし、間違えたんならどこかで数が合わなくなるけど、一つ残らず配り終えている。つまり、間違えたのは二人分ってことになって二つ持っていかなきゃいけないのに、世奈君は一つしか持っていかなかった」
「あ……」

 三流大学と言っていたが、勉強の頭の良さとこういう頭の良さは違う。藻風君は頭の回転が早い。

「初日で忙しくて、休憩戻ってきてすぐあれっすもんね。もうちょっと考えるべきだったっす。ごめん」
「な、なんで謝るんですか?」
「だって嫌になってバックれようとしたんっすよね」

 あ、めっちゃいい人。

「分かるっすよ。でも、店長仕事できる人には時給奮発するんで少しの我慢っすよ」

 ウィンクが可愛い。
 ごめんね。私こそ。言ってしまえば私用で仕事抜けたのに気を使わせちゃって。でも本当のことを言ったらルココちゃんの自由の時間を減らすことになりかねない。嘘は最後までつき続けなきゃ。

「すみません。ちょっと休憩したくて」
「いっす。いっす。忙しくなったら呼ぶんで、休憩室で一息ついていいすよ」

 優しすぎて心が痛いよ〜。

「大丈夫です。元気になったんで頑張ります」
「無理はダメっすよ」
「はい。でも、本当にもう大丈夫なんで」
「そっすか」

 藻風君の爽やかな笑顔に、良心が痛みつつも仕事に戻る。その後もキッチンで休む店長を横目に、注文を受け、ドリンクを作り、店内の清掃に努め、時折来るデリバリーに対応している間に藻風君との距離は縮まった。
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