〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
 帰りがけに靴箱に行きかけた足は北校舎への経路を辿る。吸い寄せられるように向かった先は北校舎三階の生物準備室。

整理整頓の概念が欠如した部屋、顕微鏡を覗く猫背の背中、山積みの本と水槽を悠々と泳ぐメダカの変わらない光景を見ると安心した。
ここが萌子の唯一の逃げ場だった。

『今日は部活じゃないのか?』

 顕微鏡を覗いていた陣内の背中が見えなくなった。椅子のキャスターを引いてこちらを向いた陣内の無表情も、いつも通りで安堵する。

「部活も面倒くさくなって、初めてのサボりです」
『文芸部の顧問は古典の宮崎先生だろ。あの人はサボりには厳しいぞ』

萌子は苦笑いして、水槽の隣の丸椅子に腰かけた。陣内は部活のサボりを咎めない。
唯一の逃げ場を作ってくれる彼の存在が萌子の拠り所だった。

『昨日も来なかったから今日は本を持って来てないんだ』
「すみません。私も持ってくるのを忘れてしまったんです。本は月曜日にお返しします」

 陣内と顔を合わせるのは昨日の生物の授業以来だ。今週は心に生まれた説明がつけられない感情がどろどろに混ざり合って、ずっと苦しかった。
言葉で吐き出したくても、感情を咀嚼《そしゃく》できずにいた。

『何があった?』
「……お兄ちゃんの名前がツイッターに出ているみたいなんです。私はツイッターやってないから、どういうことかよくわからなかったんですけど……」

咀嚼しきれずに溜まっていた感情をゆっくり濾過《ろか》する。コーヒーの準備をする陣内は手を動かしながら萌子の話に耳を傾けていた。

『お兄さんのことがツイッターで話題になっていると言うこと?』
「はい。……月曜日に女の人が殺された事件があって、お兄ちゃんはその人と不倫していたんです。家に警察が来てお兄ちゃんが取り調べられて……。お兄ちゃんは殺していないと言っていました」

 カップになみなみと注がれたコーヒーを溢さないように一口飲むと冷えた心が温まる。インスタントコーヒーのはずだが、陣内が淹れてくれるコーヒーはいつも美味しい。

今日は陣内も自分の分のコーヒーを淹れていた。

「ツイッターではお兄ちゃんの本名や大学の名前まで出ていて、クラスの皆もそのことで私をからかってくるんです。私は責められるような悪いことはしてないのに……悪いのはお兄ちゃんなのに……」
『お兄さんと話はしてる?』

 萌子はかぶりを振った。兄の涼太とは一昨日の夜から一言も話をしていない。
朝に顔を合わせてもどんな態度をとればいいかわからなくて、結果として萌子が無視をする形になる。

「今はお兄ちゃんが気持ち悪く思えて顔も見たくありません。殺された人は可哀想だけど不倫なんて最低……」

 何にショックを受けているの? 何に嫌悪しているの?
兄の男の一面を知りたくなかった。これまで幾度もちらついた兄の女の影にわざと気付かないフリをしていた。
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