〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
「先生が貸してくれたあの本で切り裂きジャックが女を殺す場面を読むと、上手く言えないんですけど……スカッとするんです。殺される女が大嫌いな義理の母に重なって、私の代わりにフィクションの世界の切り裂きジャックがあの女を殺してくれると嬉しくなるんです」
無言の陣内は萌子の深淵をじっと覗いている。
「先生、私はどこかおかしくなっちゃったんでしょうか?」
恐る恐る尋ねた萌子に陣内が返した答えは意外な一言だ。
『すぐに学校を出なさい」
「え?」
『西日暮里で乗り換えて亀有《かめあり》まで行くんだ。亀有に着いたら、南口のロータリーに出てバスに乗って』
早口で告げた彼はプリントの裏面に数字と漢字を走り書きしている。渡されたメモには、生物の授業で見慣れた陣内の字でバスの路線と停留所の名前、時間と料金が書いてあった。
「なんで亀有なんですか?」
『俺の家がある』
「先生の家?」
『話なら家で改めて聞く』
急かされて萌子は学校を後にした。最寄りの鶯谷駅から15時56分発の電車に乗り、言われた通り西日暮里駅で亀有に向かう電車に乗り換えた。
亀有駅に到着した時には16時半が近かった。南口のロータリーでメモにある路線を探す。
初めて訪れる葛飾《かつしか》区、亀有の街の景色はちょっとした旅をしている気分だ。
亀有駅前を出発したバスに揺られて10分。陣内が指定した停留所でバスを降りた。湿っぽい風が夕方の街に吹いている。
都道に面した停留所の側には、古めかしい美容室や小さな内科のクリニックがあった。
何もかもが知らない街の、知らない人々。知らないというのはわくわくして楽しくて、そわそわして心細い。
萌子は陣内を待っていた。停留所を少し離れた駐車場のフェンスに背をつけ、雨が降りそうな空を見上げる。
どれくらいそうしていたかわからない。5分か10分か、30分もそうして立ち尽くしていたかもしれない。
黒いジャンパーを羽織った男が乗る自転車が、萌子の前でブレーキをかけた。自転車を降りたひょろ長い男の顔は知らない街でたったひとつ、萌子が知っている真実。
『家はここから近い。ついてきて』
自転車を引いて歩く陣内の後ろを無言で追った。大通りから細い道の住宅街に入り、曲がり角を二回曲がる。
公園で遊ぶ子どもの姿を見つけた。あんな風に、学校の後に友達と公園で遊んだ経験が萌子にはない。
遊び相手はいつも母だ。母が亡くなってからは、いつもひとりで遊んでいた。一人遊びが彼女は得意だった。
葛飾区内の二階建てアパートに辿り着いた萌子の胸中は、得たいの知れない感情に支配されている。
派手なピーコックグリーンに彩られた階段と手すりに懐かしい気持ちになったのは、今の一軒家に引っ越す前に暮らしていた古いマンションの階段の塗装も、明るい緑色だったから。
「お邪魔します……」
陣内の家は狭くて暗い。カーテンが閉めきられた部屋に彼が灯りを点《とも》すと、膨大な量の本が押し込まれた本棚が萌子を迎えた。
「凄い。図書館みたい……」
萌子の知る作家、知らない作家、知っている物語、知らない物語、様々な小説が作者名ごと五十音順に並んでいる。
無言の陣内は萌子の深淵をじっと覗いている。
「先生、私はどこかおかしくなっちゃったんでしょうか?」
恐る恐る尋ねた萌子に陣内が返した答えは意外な一言だ。
『すぐに学校を出なさい」
「え?」
『西日暮里で乗り換えて亀有《かめあり》まで行くんだ。亀有に着いたら、南口のロータリーに出てバスに乗って』
早口で告げた彼はプリントの裏面に数字と漢字を走り書きしている。渡されたメモには、生物の授業で見慣れた陣内の字でバスの路線と停留所の名前、時間と料金が書いてあった。
「なんで亀有なんですか?」
『俺の家がある』
「先生の家?」
『話なら家で改めて聞く』
急かされて萌子は学校を後にした。最寄りの鶯谷駅から15時56分発の電車に乗り、言われた通り西日暮里駅で亀有に向かう電車に乗り換えた。
亀有駅に到着した時には16時半が近かった。南口のロータリーでメモにある路線を探す。
初めて訪れる葛飾《かつしか》区、亀有の街の景色はちょっとした旅をしている気分だ。
亀有駅前を出発したバスに揺られて10分。陣内が指定した停留所でバスを降りた。湿っぽい風が夕方の街に吹いている。
都道に面した停留所の側には、古めかしい美容室や小さな内科のクリニックがあった。
何もかもが知らない街の、知らない人々。知らないというのはわくわくして楽しくて、そわそわして心細い。
萌子は陣内を待っていた。停留所を少し離れた駐車場のフェンスに背をつけ、雨が降りそうな空を見上げる。
どれくらいそうしていたかわからない。5分か10分か、30分もそうして立ち尽くしていたかもしれない。
黒いジャンパーを羽織った男が乗る自転車が、萌子の前でブレーキをかけた。自転車を降りたひょろ長い男の顔は知らない街でたったひとつ、萌子が知っている真実。
『家はここから近い。ついてきて』
自転車を引いて歩く陣内の後ろを無言で追った。大通りから細い道の住宅街に入り、曲がり角を二回曲がる。
公園で遊ぶ子どもの姿を見つけた。あんな風に、学校の後に友達と公園で遊んだ経験が萌子にはない。
遊び相手はいつも母だ。母が亡くなってからは、いつもひとりで遊んでいた。一人遊びが彼女は得意だった。
葛飾区内の二階建てアパートに辿り着いた萌子の胸中は、得たいの知れない感情に支配されている。
派手なピーコックグリーンに彩られた階段と手すりに懐かしい気持ちになったのは、今の一軒家に引っ越す前に暮らしていた古いマンションの階段の塗装も、明るい緑色だったから。
「お邪魔します……」
陣内の家は狭くて暗い。カーテンが閉めきられた部屋に彼が灯りを点《とも》すと、膨大な量の本が押し込まれた本棚が萌子を迎えた。
「凄い。図書館みたい……」
萌子の知る作家、知らない作家、知っている物語、知らない物語、様々な小説が作者名ごと五十音順に並んでいる。