〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
春の雨は飽きずに闇夜を濡らす。20時の赤坂駅前は人や車の姿もまばらだった。
道路を跳ねる雨音を背にして、神田美夜は赤坂の道を進んだ。途中で二人組の外国人男性に片言の日本語で飲みに誘われたが、彼らの顔も見ずに流暢な発音の英語で断りの言葉を返した。
頭と身体が重いのは低気圧の影響か。きっとそれだけではない。
ホテルで囁かれた陣内の言葉がずっと心の回廊を独り歩きしている。
──“あなたは刑事らしくない。どうしてそちら側にいるんですか?”──
鈍重な動きで彼女は赤坂二丁目と六丁目の狭間に入り込んだ。パンプスに跳ねた雨水がストッキングに染み込んで気持ちが悪い。
東京は昼と夜で世界が変わる街だ。太陽の下では見えなかった世界が闇の下には現れる。
洒落た街の印象が強い赤坂も、夜は飲み屋街に変わる。
見慣れてきたはずのいつもの坂道で初めて目に留まったその店も、今日が雨でなければ見落としていたかもしれない。
赤坂六丁目側のビルの軒下で雨宿りをしていたカップルが、ひとつの傘に身を寄せ合って雨に挑んでいく。
わざわざひとつの傘でどしゃ降りの道を歩くカップルに効率が悪いと呆れつつ、彼女は先ほどカップルが雨宿りしていたビルに視線を移した。
商業ビルの一階部分の壁面がクリーム色に塗られている。
壁に固定されたプレート文字は黒色のアルファベットでTrattoria mughetto《ムゲット》とある。Trattoria《トラットリア》は確か、イタリアの大衆食堂を指す言葉。
イタリア語にそこまで明るくない美夜はムゲットの意味がすぐには思い浮かばない。
似たつづりには鈴蘭《すずらん》を表すフランス語のミュゲがある。おそらくミュゲのイタリア発音だ。
(イタリアンか……)
あと少しで家に着くのに家の手前で雨宿りがしたくなったのは、冷たい雨に打たれた肌をぬくもりが求めているから?
どうせ家に帰っても誰もいない。ちょっとくらい帰りが遅くなっても小言を言ってくれる家族もいない。
孤独な大人は時々、予定外の寄り道をしたがる。
トラットリアは地下にあるらしい。雨に濡れないように軒下に寄せられたブラックボードには、本日のおすすめパスタやディナーメニューが洒落た横文字で書かれていた。
港区のイタリアンにしては値段も良心的だ。
閉じた赤い傘の水気を切ってから彼女はガラス扉を押し開けた。地下に繋がる石貼りの螺旋階段には、これまでにここを降りた者達の濡れた足跡が残っている。
道路を跳ねる雨音を背にして、神田美夜は赤坂の道を進んだ。途中で二人組の外国人男性に片言の日本語で飲みに誘われたが、彼らの顔も見ずに流暢な発音の英語で断りの言葉を返した。
頭と身体が重いのは低気圧の影響か。きっとそれだけではない。
ホテルで囁かれた陣内の言葉がずっと心の回廊を独り歩きしている。
──“あなたは刑事らしくない。どうしてそちら側にいるんですか?”──
鈍重な動きで彼女は赤坂二丁目と六丁目の狭間に入り込んだ。パンプスに跳ねた雨水がストッキングに染み込んで気持ちが悪い。
東京は昼と夜で世界が変わる街だ。太陽の下では見えなかった世界が闇の下には現れる。
洒落た街の印象が強い赤坂も、夜は飲み屋街に変わる。
見慣れてきたはずのいつもの坂道で初めて目に留まったその店も、今日が雨でなければ見落としていたかもしれない。
赤坂六丁目側のビルの軒下で雨宿りをしていたカップルが、ひとつの傘に身を寄せ合って雨に挑んでいく。
わざわざひとつの傘でどしゃ降りの道を歩くカップルに効率が悪いと呆れつつ、彼女は先ほどカップルが雨宿りしていたビルに視線を移した。
商業ビルの一階部分の壁面がクリーム色に塗られている。
壁に固定されたプレート文字は黒色のアルファベットでTrattoria mughetto《ムゲット》とある。Trattoria《トラットリア》は確か、イタリアの大衆食堂を指す言葉。
イタリア語にそこまで明るくない美夜はムゲットの意味がすぐには思い浮かばない。
似たつづりには鈴蘭《すずらん》を表すフランス語のミュゲがある。おそらくミュゲのイタリア発音だ。
(イタリアンか……)
あと少しで家に着くのに家の手前で雨宿りがしたくなったのは、冷たい雨に打たれた肌をぬくもりが求めているから?
どうせ家に帰っても誰もいない。ちょっとくらい帰りが遅くなっても小言を言ってくれる家族もいない。
孤独な大人は時々、予定外の寄り道をしたがる。
トラットリアは地下にあるらしい。雨に濡れないように軒下に寄せられたブラックボードには、本日のおすすめパスタやディナーメニューが洒落た横文字で書かれていた。
港区のイタリアンにしては値段も良心的だ。
閉じた赤い傘の水気を切ってから彼女はガラス扉を押し開けた。地下に繋がる石貼りの螺旋階段には、これまでにここを降りた者達の濡れた足跡が残っている。