〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
 パンプスの音を鳴らして一段ずつ下に向かう。誘われた地下の空間は外の喧騒を忘れさせてくれる別世界。

木の扉の先に待っていた世界はぬくもりのあるオレンジ色だ。飴色のテーブルを囲んで、多くの老若男女がお喋りと食事に興じている。

レジ横の一角にはハンドメイドと思われる鈴蘭をモチーフにしたピアスやイヤリング、ネックレスが雑貨屋のアクセサリーコーナーのごとく陳列されていた。やはり店名のmughettoは鈴蘭を意味しているようだ。

 席は満席に近い。予約もしていない人間がのこのこと入ってもいいのか、躊躇して引き返しかけた美夜の背中を店員が呼び止めた。

「おひとりですか?」
「はい。予約をしてないんですけど……空いている席はありますか?」

見たところ、どこの席も二人連れや三人以上でテーブルを囲っている。ひとりで気楽に座れるカウンター席も、空席はひとつもなかった。

「今日は混んでいて相席でよろしければひとつ空いています。同じお席が男性の方となりますが……」
「私は相席で大丈夫です。その席の方に相席の確認をしていただければ」
「申し訳ありません。少々お待ち下さい」

 応対してくれた女性店員は美夜よりも幾分歳上だ。歳は三十代の半ばから後半、人当たりの良い笑顔に癒された。

 刑事をしていると相手の身なりや年齢をつい観察してしまう。通路で待つ間、料理に舌鼓《したつづみ》を打つ家族連れをぼうっと眺めていた。
あんな風に家族でレストランに食事に出掛けた思い出はもうずっと、遠い昔。

 今日はどうしてもひとりの家に居たくなかった。雨の夜のひとりきりの部屋で空腹を満たす目的だけの味気ない食事は、普段は気にもしない彼女の孤独を浮き彫りにさせる。

「お客様、お待たせいたしました。お席にご案内いたします」

 案内された席は奥まった場所に設置された二人席。相席の相手はスーツを着た同年代の男だった。

「失礼します」
『どうぞ』

 男は美夜を一瞥して、開いている文庫本に視線を落とす。男の左手に指輪はない。
独身のサラリーマンが仕事帰りにひとりで立ち寄るにしては、ラーメン屋でも居酒屋でもなくイタリアンとは、ずいぶん洒落ている。

テーブルには水のグラスと生ハムとチーズのサラダが並んでいた。男側に揃う品目もまだ前菜の段階だ。
< 94 / 100 >

この作品をシェア

pagetop