〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
同じ日に同じ小説の話を、別々の人間と語り合う。どちらも友達でも知人でもない。
一方は殺人事件の被害者家族、一方はたまたま相席になった名も知らぬ男。
発展も白熱もしない平坦な会話を細細《ほそぼそ》と交えて、食事は終わった。
トマトのパスタは美夜の好みに合っていた。当たり前にコンビニのパスタよりも美味しい。
食後のコーヒーは、ほっと落ち着くぬくもりに溢れていた。
居心地の良い地下に手を振って現実が待つ地上に上がる。必然的に同じ時間に退店した二人は、視線だけで別れを告げた。
離ればなれになる赤い傘と黒い傘。
あの日と同じ春の雨。あの日と同じ、赤と黒。
彼女と彼はどこまで気付いている?
一夜の相席を交えた女と別れた木崎愁は、赤坂六丁目方向に足を向けた。
遠くに稲妻の気配はあるが、雨はひとまず小康《しょうこう》状態。傘に当たる雨音も控えめだった。
赤坂六丁目に建つ近代的なコンクリートマンションが闇に白く浮かび上がっている。若葉に変化した桜の木が植わるアプローチを抜けてひとつめのオートロックを通過し、さらに二つ目のオートロックを通って共有ラウンジへ。
偶数階用のエレベーターで最上階に上がった。部屋数も限られた最上階で、最も広い六○一号室の鍵をカードキーで解錠する。
用済みとなった黒い傘を傘立てに放り込んだ矢先、彼の帰りを待ちわびていた舞が玄関に飛び込んで来た。
「愁さぁんっ! おかえりなさぁい」
『はいはい、ただいま。服濡れてるから抱き着くなよ。……伶、これクリーニング出しておいて』
抱き着こうとする舞を制し、一緒に出迎えに出た伶に雨に濡れたジャケットを渡す。伶はそこから薫る匂いに鼻を動かした。
『夕飯いらないと言っていたので、てっきり接待かと思っていたんですが……ムゲットに行きましたね?』
『なんでわかるんだよ』
『服から雨の匂いとイタリアンの匂いがします』
『伶くんは鼻が効くねぇ』
愁が纏う匂いが無論それだけではないと伶は知っている。愁に染み付いた殺戮の臭いは、初めて殺人を犯したあの日から永遠に消えない。
『風呂沸いてますよ』
『ああ、すぐ入る』
一旦自室に戻った愁は、雨の匂いが染みたネクタイとワイシャツを脱ぎ捨てて半裸になった。部屋の電気もつけずにベッドに寝そべり、先刻の女との会話を反芻《はんすう》する。
桜の木の下には死体が埋まっていると真顔で語る女に初めて会った。桜の下に死体を埋めた経験でもあるような口振りには、不思議なデジャヴがある。
黒闇《こくあん》の街にまた雷が轟いている。銃声に似せたあの音は、獣の眠りを呼び覚ます春雷。
そう、きっとこの出会いはボタンの掛け違い。
偶然の相席も、トマトのパスタもレモンイエローの文庫本も、少しでもタイミングがずれていれば、彼女と彼は出会わなかった。
いつか二人は悟る。出会ってはいけなかった、と。
いつか二人は悔やむ。出会わなければよかった、と。
Act3.END
→エピローグ に続く
一方は殺人事件の被害者家族、一方はたまたま相席になった名も知らぬ男。
発展も白熱もしない平坦な会話を細細《ほそぼそ》と交えて、食事は終わった。
トマトのパスタは美夜の好みに合っていた。当たり前にコンビニのパスタよりも美味しい。
食後のコーヒーは、ほっと落ち着くぬくもりに溢れていた。
居心地の良い地下に手を振って現実が待つ地上に上がる。必然的に同じ時間に退店した二人は、視線だけで別れを告げた。
離ればなれになる赤い傘と黒い傘。
あの日と同じ春の雨。あの日と同じ、赤と黒。
彼女と彼はどこまで気付いている?
一夜の相席を交えた女と別れた木崎愁は、赤坂六丁目方向に足を向けた。
遠くに稲妻の気配はあるが、雨はひとまず小康《しょうこう》状態。傘に当たる雨音も控えめだった。
赤坂六丁目に建つ近代的なコンクリートマンションが闇に白く浮かび上がっている。若葉に変化した桜の木が植わるアプローチを抜けてひとつめのオートロックを通過し、さらに二つ目のオートロックを通って共有ラウンジへ。
偶数階用のエレベーターで最上階に上がった。部屋数も限られた最上階で、最も広い六○一号室の鍵をカードキーで解錠する。
用済みとなった黒い傘を傘立てに放り込んだ矢先、彼の帰りを待ちわびていた舞が玄関に飛び込んで来た。
「愁さぁんっ! おかえりなさぁい」
『はいはい、ただいま。服濡れてるから抱き着くなよ。……伶、これクリーニング出しておいて』
抱き着こうとする舞を制し、一緒に出迎えに出た伶に雨に濡れたジャケットを渡す。伶はそこから薫る匂いに鼻を動かした。
『夕飯いらないと言っていたので、てっきり接待かと思っていたんですが……ムゲットに行きましたね?』
『なんでわかるんだよ』
『服から雨の匂いとイタリアンの匂いがします』
『伶くんは鼻が効くねぇ』
愁が纏う匂いが無論それだけではないと伶は知っている。愁に染み付いた殺戮の臭いは、初めて殺人を犯したあの日から永遠に消えない。
『風呂沸いてますよ』
『ああ、すぐ入る』
一旦自室に戻った愁は、雨の匂いが染みたネクタイとワイシャツを脱ぎ捨てて半裸になった。部屋の電気もつけずにベッドに寝そべり、先刻の女との会話を反芻《はんすう》する。
桜の木の下には死体が埋まっていると真顔で語る女に初めて会った。桜の下に死体を埋めた経験でもあるような口振りには、不思議なデジャヴがある。
黒闇《こくあん》の街にまた雷が轟いている。銃声に似せたあの音は、獣の眠りを呼び覚ます春雷。
そう、きっとこの出会いはボタンの掛け違い。
偶然の相席も、トマトのパスタもレモンイエローの文庫本も、少しでもタイミングがずれていれば、彼女と彼は出会わなかった。
いつか二人は悟る。出会ってはいけなかった、と。
いつか二人は悔やむ。出会わなければよかった、と。
Act3.END
→エピローグ に続く