〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
 雨で身体が冷えていた。渡されたメニュー表から冷たい食べ物は除外して、彼女が選んだ料理は前菜にローズマリー風味のポテトフリットとクラムチャウダー、パスタはトマトソースで作られたポモドーロ。

以前に九条がコンビニで購入してきたトマトとチーズのパスタは、可もなく不可もないコンビニの味だ。コンビニのパスタではない、イタリアンレストランのトマトのパスタが食べたい気分だった。

 注文の品が来るまで手持ち無沙汰に読書中の男に視線を注いだ。相席であっても、話したくなければ無理して初対面の相手と会話をする必要はない。

ひとり者同士、黙って同じ席に着いて黙って食事をすればいい。

 けれど無口に本の世界に引きこもる男は美夜のバディとは真逆に思えた。
九条はこちらが黙っていても勝手に話を進めてくれる。それが鬱陶しくもあるが気が楽だ。

常にお喋りな男が隣にいる日常に慣れてくると、無口な男が一層物珍しい。気まずさに堪えかねて話かけようかと思っても、元来の無口な性格が邪魔をする。

『……相席の縁で何か話したいならそっちから話題振ってくれないか? そうやってじっと見られているだけが一番困る』

 視線に気付いた男が美夜を見据えた。抑揚のない単調な声色や冷たい瞳には怒りの感情を感じない。

「ごめんなさい。……その本」
『知ってる?』
「檸檬を爆弾に見立てた話ですよね。高校の頃に読みました」

 男の手にある文庫本は梶井基次郎の【檸檬《れもん》】だった。
鮮やかな黄色い表紙は陣内の自宅で見かけた檸檬の文庫とは装丁が異なる。別の出版社か、それとも出版された時期が違うのだろうか。

 ウェイターが美夜達の席に料理を運ぶ。夕食の準備が整い始めたテーブルの隅に、世界を閉じたレモンイエローの文庫本が添えられた。

男もクラムチャウダーを頼んでいた。美夜が選んだ前菜のポテトフリットと二つのクラムチャウダーがテーブルに並ぶ。
フリットを勧めると彼は遠慮なく彼女の皿に手を伸ばした。

『檸檬と桜、どっちが好き?』

唐突に尋ねられた男の問いに、美夜は即座に返答する。

「梶井の小説の話ですか?」
『小説じゃなくてもいいけど』
「果物のレモンは好きでも嫌いでもありません。桜の花は苦手です」
『桜が苦手な人間もいるんだな』
「春が嫌いなだけです。桜は春の象徴のようなものですよね。でも梶井の桜は好きですよ」

 大昔の人間は春には桜ではなく、梅や桃を愛でたと聞く。墓地に咲く桜を昔の人は忌み嫌っていた。

いつの間にか、春の主役は桜となった。梅や桃の開花情報は聞かなくとも、全国の桜の開花情報は弥生の時期に天気予報をつければ毎日流れてくる。

『なんで梶井の桜は好きなんだ?』
「桜の木の下に死体が埋まっていると思うから……ですね。食事の場ですみません」

 美夜が失言だと謝った発言を男はたいして気にしていない様子だった。
その後も運ばれてきたパスタを食しつつ、たまに男と会話を交わす。会話のほとんどが【檸檬】に収録された物語の話だった。
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