🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
第十二章:はなむらさき
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 ふじ棚でのことを引きずりながら1週間が過ぎた時、突然咲がやってきてファンファーレを鳴らした。
「じゃじゃ~ん」
 持ってきた保冷ケースを開けると、中には紫色の花が描かれた美しいボトルが並んでいた。
「はなむらさきの出荷第一号です」
 誰もが待ちわびた記念すべき日がやってきたのだ。

「乾杯!」
 咲の音頭でグラスを合わせると、繊細な泡と共に爽やかな香りが立ち上ってきた。口に含むと、すっきりとした中にふわっとした柔らかな風味が漂っていて、昨年試飲した時よりもおいしくなったような気がした。
「軽いね。すっと飲めるね。食前酒にも食後酒にもばっちりだね」 
「本当、飲みやすいわ。いくらでも飲めそう」
 母がグラスを空けると、ホッとしたのか、「良かった。気に入ってもらって」と安堵のような息を漏らした。そして、「いっぱい飲んでくださいね」と母のグラスにボトルを傾けた。素晴らしい名前を贈ってくれた母への感謝が溢れているように見えた。

        *

「ひとつ頼みがあるんだけど」
 はなむらさきを専用の保冷倉庫に収納したあと、内藤庄次が渇望しているアルコール度数の低い日本酒のことを咲に伝えた。
「アルコール度が低くて爽やかな日本酒?」
「そう、若い人が飲みやすい日本酒を探しているようなんだ。でも、俺の知っている限りではそんなものはどこにもないし、取引先に聞いても、扱っているところはなかった」
「そうなんだ~」
「だから頼めないかなって思って」
「そっか~」
「どう?」
「う~ん」
「難しい?」
「う~ん、どうかしら」
 咲は両手で鼻と口を包むようにして日本酒が陳列している棚を見つめたが、視線が戻ってくることはなかった。
「やっぱり難しいか~」
 独り言のように呟いて反応を待ったが、咲は一点を見つめたまま首を傾げているだけで、身動きもしなくなった。
 無理だよな、
 咲に聞こえないような声で自らを納得させて、内藤庄次の依頼のことを頭から消し、これからの屋台骨になるであろう『はなむらさき』の拡販に切り替えた。

        *

 その翌日、醸は勇んでふじ棚に向かった。はなむらさきを店主に試飲してもらうためだ。
「おっ、いらっしゃい」
 元気な声で店主が迎えてくれた。
「お時間を頂きましてありがとうございます」
 丁寧にお辞儀をすると、「まあまあ」とカウンターの椅子に座るように促され、醸が座ると、その横に座った。
「今日はなんだね?」
「はい、日本初の泡酒が出来上がりましたので持ってまいりました」
 運搬用の保冷ケースからボトルを取り出してカウンターに置くと、「泡酒?」と首を傾げた。
「泡の出る酒です。シャンパンの日本酒版と言ってもいいかと思います」
「ふ~ん」
 腕を組んで、珍しいものを見るように顔を近づけた。
「取り敢えず飲んでみてください」
 頷いた店主は若い者にシャンパングラスを持ってくるよう命じた。

「では」
 両手にボトルを持って慎重に店主のグラスに注ぐと、「おっ」と声を上げた。泡を弾かせながら流れていく液体から目が離せないようだった。それは注ぎ終わってグラスを鼻に近づけた時も同じだった。「おっ」とまた声が出たのだ。そして口に含むと、一気に幸せそうな表情になった。
「いけるね」
 笑みが零れたのを見て、天にも昇りそうになった。顧客第一号が決まったと思ったからだ。しかし、期待した「全部もらうよ」という声はなく、真顔になって何かを考えるような表情になった。
「ちょっと合わせてみるか」
 カウンターの中に入ると、ネタを取り出して握り始めた。
 出てきたのはシャリの上にウニが乗っているだけの握りだった。
「海苔を巻いたらウニの上品な甘みが消える。最高のウニは上等な山葵(わさび)だけで食うのが一番だ。ムラサキ(醤油)をつけるなよ」
 早く食えというように店主が顎をぐっと前に出したので、ウニが落ちないように慎重に口に運ぶと、その途端、味蕾が躍った。しかし、そのうまさを言葉にすることができず、顔を揺らすことしかできなかった。すると、店主はなぜかニヤッと笑ってウニを頬張り、はなむらさきを口に含んだ。
「やっぱり、思った通りだ」
 大きく頷いて、お前も飲め、というようにグラスに注いだので、ウニの余韻が残る口の中に流し込んだ。すると、二つが溶け合うようにして一つになった。完璧なマリアージュだった。
 なんだ、これは、
 唸った瞬間、店主がニヤリと笑った。
「全部貰うよ」
 一瞬にして、はなむらさきが完売した。

        *

 その夜、すべて売れたことを咲に伝えると、電話の向こうで跳び上がって喜ぶような声が聞こえてきた。
「信じられない」
 受話器を持って首を振っている姿が思い浮かぶような口調だった。
「そうだろ。俺も同じだよ。夢を見ているような感じなんだ」
 声は返ってこなかったが、何度も頷いているような気配を感じた。しかし、そんな感情にいつまでも支配されているわけにはいかなかった。ビジネスは継続させなければ意味がないからだ。
「ところで次の出荷だけど、いつになる?」
「あっ」
 それっきり声が途絶えた。一気に心配になったので、念を押した。
「ふじ棚で採用されたということはお弟子さんたちの店でも採用されるということだから、在庫を確保しておきたいんだけど、次の予定を教えてくれないかな」
 しかし、返ってきたのは「う~ん」という呻くような声だけだった。醸は一気に不安になった。
「何か問題でもあるの?」
「ううん、そうじゃないけど……」
「じゃあ、何?」
「うん、ちょっと言いにくいんだけど」
「なんだよ?」
「実はね……在庫がないの」
「えっ!」
 声がひっくり返ってしまった。次のロットは熟成中で、出荷できるまでに半年ほどかかるというのだ。
「まいったな~」
「ごめんね、こんなに早く売り切れるとは思っていなかったから……」
 声が尻切れトンボになった。
「まいったな~」
 同じ言葉しか出なかったので口を閉じると、受話器の向こうからも音がしなくなった。会話が途絶えたまま、コードを持って手遊びをするしかなくなった。しかし、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
「それで、次のロットのその次はどうなっているの?」
「うん、それも仕込みはできてる」
「量は?」
「少し多めにしてる」
「そうか、よかった。で、その次は?」
「熟成を始めたばかりだから1年後になるわ」
「その次は?」
「まだ仕込んでない」
「すぐにやって。絶対に売れるから、多めというか、いっぱい仕込んでよ」
「わかった。今からすぐ始める」
「よろしく」
 頼む、と言う前に電話が切られた。咲が仕込みに走る姿が目に浮かんだ。

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