〜Midnight Eden〜 episode2.【蛍狩】
ホーセズネックのグラスをテーブルに戻したタイミングで美夜の頬に愁の手が触れた。驚く美夜に構わずに愁は顔を近付ける。
唇と唇が触れる数秒前に彼女は愁の顔をかわしてうつむいた。
「いきなり何を……」
『なんだ。そのつもりじゃないのか?』
「自惚れないでください」
『女から声かけてくるなら、目的はこれしかないだろ?』
愁は肩を震わせて笑っている。キスを拒まれて不機嫌になるどころか、彼は美夜の反応を面白がっているようだった。
「……私がそのつもりだと思ったから誘ったんですか?」
『怒った?』
「怒ってはいません。その可能性は頭に入れておくべきでした」
顔が熱いのをアルコールのせいにして、美夜はホーセズネックで唇を湿らせた。すっきりとした後味の酒が全身の動揺を鎮めてくれる。
『そっちも自惚れんなよ。飯食ってこのまま家に帰りたくなかっただけだ。ちょうど話し相手になりそうな奴が通りかかったから、酒に付き合わせた』
グランドスラムのグラスを傾ける愁の手には煙草とライター。酒を飲んで煙草を吸う、口が忙しくならないのか、酒と煙草の同時摂取が未経験の美夜にはわからない。
心地いい沈黙が続く。紫煙を吐き出す愁の吐息、酒を飲み込む美夜の喉の音、グラスの氷が触れ合う涼しげな音に他の客達のひそひそ話。
どれもが地下にいる者とだけの秘密の共有。
隣の席のカップルは堂々とキスをしていた。女の左手薬指には綺麗に磨かれた指輪があり、男の左手に指輪はいない。
あれも秘密のキスなのだろう。
そう思うことにした。
*
交差点で分離する黒い傘と赤い傘。黒い傘は角を曲がって赤い傘は直進する。
離れていく黒い傘に背を向けた美夜は、今夜二度目の帰路を辿った。
夢見心地の不思議な夜。頭と身体がふわふわして熱いのはきっとアルコールのせい。
わざと傘を傾けて、黒い空から落ちる雨を頬に受け止めた。火照った頬にひやりと冷たい雨粒が触れて気持ちがいい。
この気持ちに名前を付けるとすれば戸惑いが適切だ。名前のない気持ちの存在が気持ち悪い。
手を伸ばしても掴めない雨雲から漏れる感情の雫が、美夜を濡らす。
帰宅した美夜は着替えも入浴も放棄してベッドに寝そべった。手繰りよせたバッグから取り出したスマートフォンのブルーライトが目に眩しい。
トークアプリを開いて真っ先に目に入る[新しい友だち]の項目。
そもそもこの[友だち]のくくりで統一された呼び方が好きではないが、アプリに文句を言っても仕方ない。
友だち一覧に加わった友達ではない人。
次に会う機会があるかわからない男の名前は木崎愁。
冷たい雨の夜が似合う男だった。
Act2.END
→Act3.恋蛍と少女 に続く
唇と唇が触れる数秒前に彼女は愁の顔をかわしてうつむいた。
「いきなり何を……」
『なんだ。そのつもりじゃないのか?』
「自惚れないでください」
『女から声かけてくるなら、目的はこれしかないだろ?』
愁は肩を震わせて笑っている。キスを拒まれて不機嫌になるどころか、彼は美夜の反応を面白がっているようだった。
「……私がそのつもりだと思ったから誘ったんですか?」
『怒った?』
「怒ってはいません。その可能性は頭に入れておくべきでした」
顔が熱いのをアルコールのせいにして、美夜はホーセズネックで唇を湿らせた。すっきりとした後味の酒が全身の動揺を鎮めてくれる。
『そっちも自惚れんなよ。飯食ってこのまま家に帰りたくなかっただけだ。ちょうど話し相手になりそうな奴が通りかかったから、酒に付き合わせた』
グランドスラムのグラスを傾ける愁の手には煙草とライター。酒を飲んで煙草を吸う、口が忙しくならないのか、酒と煙草の同時摂取が未経験の美夜にはわからない。
心地いい沈黙が続く。紫煙を吐き出す愁の吐息、酒を飲み込む美夜の喉の音、グラスの氷が触れ合う涼しげな音に他の客達のひそひそ話。
どれもが地下にいる者とだけの秘密の共有。
隣の席のカップルは堂々とキスをしていた。女の左手薬指には綺麗に磨かれた指輪があり、男の左手に指輪はいない。
あれも秘密のキスなのだろう。
そう思うことにした。
*
交差点で分離する黒い傘と赤い傘。黒い傘は角を曲がって赤い傘は直進する。
離れていく黒い傘に背を向けた美夜は、今夜二度目の帰路を辿った。
夢見心地の不思議な夜。頭と身体がふわふわして熱いのはきっとアルコールのせい。
わざと傘を傾けて、黒い空から落ちる雨を頬に受け止めた。火照った頬にひやりと冷たい雨粒が触れて気持ちがいい。
この気持ちに名前を付けるとすれば戸惑いが適切だ。名前のない気持ちの存在が気持ち悪い。
手を伸ばしても掴めない雨雲から漏れる感情の雫が、美夜を濡らす。
帰宅した美夜は着替えも入浴も放棄してベッドに寝そべった。手繰りよせたバッグから取り出したスマートフォンのブルーライトが目に眩しい。
トークアプリを開いて真っ先に目に入る[新しい友だち]の項目。
そもそもこの[友だち]のくくりで統一された呼び方が好きではないが、アプリに文句を言っても仕方ない。
友だち一覧に加わった友達ではない人。
次に会う機会があるかわからない男の名前は木崎愁。
冷たい雨の夜が似合う男だった。
Act2.END
→Act3.恋蛍と少女 に続く