〜Midnight Eden〜 episode2.【蛍狩】
 夏木のマンションの地下駐車場に降りた愁は、思い立ってトークアプリを開いた。車に乗り込み、エンジンをかける前に友だち一覧からある女の名前を探す。

音声通話に繋いだ愁のスマホから軽快な呼び出し音が鳴り響く。連続する呼び出し音が静まった数秒後に女の声が聴こえた。

{……はい}
『どうも』
{……どうも}

 通話相手として表示された名前は美夜。
トークアプリの登録名をフルネームに設定しない用心深さは警察の立場柄か、それとも彼女の性格ゆえか。

{いきなり電話が来て驚きました}
『無性にあんたの声が聞きたくなった』
{普通の男みたいなことを言うんですね}
『俺は普通の男だけど?』
{そうは見えなかったですよ}

美夜の媚びない物言いは聞いていて面白い。だが今夜は、彼女の歯に衣着せぬ言葉の切れ味が鈍っていた。

『どうした? 声に覇気がない』
{先週から仕事で色々あって。疲れてるみたいです}
『公務員も大変だな』

 美夜の正体には知らないフリを決め込んで愁は煙草を咥えた。
美夜が正直者ならば愁は嘘つきだ。彼女の素性も自分の立場も、今は忘れていたかった。

『……なぁ』
{はい}
『あんたの名前、綺麗だよな。美しい夜で美夜』
{急に何を……}
『……美夜』

 煙草の煙と同時に吐き出した二文字は、呟いた途端に泡沫《うたかた》に消える。
名前なんかただの記号だと思っていた。その記号を口にしたくなった気持ちに人は甘ったるい名前を付けたがる。

『黙るなよ』
{……木崎さんって絶対女慣れしてますよね}

当たらずとも遠からず。さすが刑事は勘がいい。
やはり美夜は面白い。すぐに殺すには惜しい女だ。プライベートの付き合いを夏木に指図されたくもない。

『女慣れしてる男は嫌い?』
{嫌いです}
『即答か』

 “きらい”の三文字に彼女はどんな意味を込めた?

 もし美夜を殺せと夏木に命じられたら、この女を殺せるか?
それが愁の仕事だ。けれどいつか美夜を殺す日が来るとしても、夏木の命令では殺さない。

 通話時間わずかに5分。短い逢瀬の間に灯った小さな蛍火に、甘ったるい名前は付けなかった。

殺すなら、この手で。
愛すなら、あの世で。



episode2.【蛍狩】 ーENDー
< 64 / 66 >

この作品をシェア

pagetop