お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 守頭に野菜を切ってもらいながら、だし取りと魚や海老の処理をする。

 三十分もかからずに鍋の準備がすっかりできあがり、先日購入した有田焼の大皿に見栄え良く材料を盛り付けた。

「魚の皿は冷蔵庫で、野菜はラップを掛けておけば大丈夫、と。……できました! お風呂で温まって暖かいお鍋しましょう」

 上機嫌で言った時だ、隣で手を洗っていた守頭がふと口角を上げた。

「だったら、早く食べられるように一緒に風呂に入るか」
「ああ、一緒に……はいッ!?」

 うっかりいいですねと言いかけた言葉を呑んだため、変に高い声が出た。

「いいい、一緒にって。一緒にお風呂って、お風呂ですよ? 裸になるんですよ」

 幼児の頃はともかく、物心ついてから風呂場はトイレと同じく一人で使う場所で、誰かと一緒という発想がない。なにせ修学旅行すら父に禁止されて行っていないのだ。当然友達とのお泊まりや旅行もない。

「別にかまわないだろう。夫婦なのだから」

 うろたえる沙織とは逆に守頭は相変わらずのクールな顔で平然という。

(こ、この人には羞恥心というものがないのでしょうか)

 改めて見なくても眉目秀麗な顔に、スーツが似合う長身。
 今来ているシャツの上からも分かる、適度に鍛えられた身体はしなやかで逞しく、なんら欠点がない。

「だ、旦那様は、見せても恥ずかしくない身体でしょうけれど、わ、わ、私は」

 心臓の鼓動が乱れているせいで、声までおかしなことになっている。

 思わず一歩引き相手を見れば、守頭は小首を傾げたポーズで沙織をじっと見ている。
 突然、丸裸にされたような気がして、恥ずかしさで顔に血が昇る。

 ぼんっ、という音がしそうなほど上気した頬に手を添え、下から守頭を見上げれば、彼は首をますますひねり口を開いた。

「沙織も綺麗だと思うが」

 そんな風に褒めないでほしい。いや、想像しないでほしい。
 守頭の中で自分がどんな格好をしているのかと考えただけで落ち着かない。

「変なことを言わないでください! もう、駄目です。考えちゃ」
「なにをだ? なにを考えていると思った?」

 わざととぼけているのが丸わかりの表情で知らない振りをされても困る。
 なんと答えればいいのかわからず、つい守頭の胸板を拳で軽くたたいて責めれば、彼は小さく吹き出し笑いだす。

(あ、笑った)
 
 なんの混じりけもない、本当に楽しいのだと分かる笑顔に目をみはる。
 初めてだった。結婚してからはもちろん出会ってからも。
 鋭いまなじりが優しく和らぎ、いつも引き結ばれている唇はほころんで、すごく嬉しそうだ。

 心なしか年齢より若く見えて、普段とのあまりの違いに沙織の心臓が大きく跳ねる。

(こんな風に笑うんだ)

 頭のどこかでそう思うのと同時に、この瞬間をどうにかして長く残したいと思う。できれば毎日だって見ていたいとも思う。

 なんという言葉にすればいいかわからない感情が、自分の中で静かに芽吹くのを感じつつ守頭を見つめていると、彼は〝ん?〟という風に目をまばたかせ、それから長身をゆるやかに折って沙織の顔に自分の顔を近づける。
 視界いっぱいに整った守頭の顔が広がって。

 ――キスされる。

 そう思って目を閉じた瞬間、守頭の前髪がさらりと顔を撫で、それからちゅっと軽いリップ音をたてて彼の唇が沙織の額に触れた。

「あ……」
「少しは意識したか」

 したり顔で言われる。普段なら悔しいと感じるのに今は驚きが勝ってなんの反応もできない。
 ただ騒がしい鼓動だけが耳の奥で響いていて、今がどこでなにをしていたかさえも一瞬忘れてしまう。

「沙織は、隙だらけだ。……見ていて心配になる」

 独り言のようにつぶやいた後、守頭は沙織の頭を優しく撫でて背を向けた。

 それからしばらくして、浴室のほうからわずかに物音が聞こえだし、それで沙織は我に返る。

「キス、されるかと思いました」

 いまも落ち着かない胸に両手をあてて沙織はつぶやく。
 
 キスされるかと思った。そして、キスされてもいいと思った。

(夫婦なんだから当然なことなのに、どうしてドキドキするのでしょう)
 
 突然決まった結婚、それもお金のためで愛も恋も、なんなら交際期間もほとんどないまま始まって、一年、ずっとなにもなかった。

 他人より近いけれど家族というには遠すぎた関係。
 それが、今になって少しずつ変化しだしていることを、沙織は感覚で理解しはじめていた――。

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