お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
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「パリ? パリってあのフランスのですか?」

『ほかにパリがあるなら教えてほしいんだけど』
 電話の向こうで、やや苛立った調子で逸樹が帰す。

 場所は自宅のリビング、ちょうど御飯を食べ終わって守頭と二人でソファで本を読んだり、お茶を飲んだりしている時、不意に逸樹から電話があった。

 今週の金曜日に逸樹と同僚の篠山さんが、十日のフランス出張に出かける予定だったのだが、ここにきて篠山さんだけでなくお子さんもインフルエンザにかかってしまったのだとか。

 そういえば小中学校でインフルエンザが流行っていて、学級閉鎖も出ているとニュースで見た記憶がある。

 二人のお子さんを看病して、自分もとなると体力的にかなりきついだろうし、伝染病なこともあって医師から出勤停止まで言い渡されているらしい。

『沙織、結婚したときにパスポートを作ったって言っていたよね。それに、もともと今回のオークションは西洋と東洋の陶磁器がメインになるからって、沙織の分の調査や写真撮りも篠山さんがやることになっていたから、逆に篠山さんの分の仕事もある程度わかってるでしょ?』
「それは、そうですけど」

 だからといって急に海外出張にいけなど無茶すぎる。もっとよく考えてと言いかけたものの、すでに電話は切れていて掛け直しても繋がらなかった。

(そういえば、香港から戻ってくる飛行機がどうとかって行ってたけど……)

 だとしたら夜中まで連絡が取れそうにない。し、取れたとしても逸樹がまともに答えるとも思えない。

 学生時代からこうなのだ。生徒会長としてこうと方針を決めると、あとの細かいことは沙織ができるでしょ。とばかりにぶん投げてくる。

 これは困ったことになった。仕事だし、確かに逸樹が言うように篠山さんが駄目なら沙織が行くしかないのもわかるが。
 切れたスマートフォンを握り絞めたまま、ちらりと横目で隣に座っている守頭を盗み見る。
 電話の声が大きかったから、多分内容は筒抜けだろう。

(仕事だし、出張だし、きっと大丈夫ですよね)

 と、思いつつ、いつもよりさらに無表情な守頭の方へ顔を向け、あの、と切りだそうとした途端。

「駄目だ。到底許可できない」

 厳しい調子で言われ、沙織は口ごもる。

「許可できないと言われましても、仕事上の出張ですよ?」

 できるだけ穏やかに言うと、なぜか守頭はぷいと顔を背けてから反論した。

「別にフランスに行くことを反対している訳じゃない。あの天童逸樹と二人っきりで旅行するのが許せないだけだ」

 それから膝に載せている経済雑誌をめくりだすが、絶対に読んでいないのは、ページをめくる早さからわかる。

「心配ないですよ。逸樹さんとは幼稚舎からの知り合いで、他人という訳でもないですし」
「余計に悪い。……第一、夫である俺だって、まだ沙織と外泊したことがないのに……」

 低く小さい声で呟かれ、沙織は瞬きしてしまう。

(えっと、もしかして嫉妬ですか?)
 
 そんなまさか、と思いつつも守頭の言動からはそうとしか取れない。

「うーん……」

 つい数ヶ月前であれば、夫婦としての実態などなにひとつもないのに、口を出さないでくださいときっぱり断れたが、今となっては違う。
 肉体的な関係はまだないが、それ以外の部分では実に夫婦――というか新婚らしく協力しあい、会話を楽しみ、互いの存在のくつろぎを得て穏やかな暮らしになってきている。

 だから沙織だって、強く「仕事だから、関係ありません。勝手に行きます」と無下にすることもできない。

「でも旦那様も出張に行かれますよね? 仕事だから」
「そうだが、女を連れていったことは一度もない」

 きっぱりと言われなぜだか驚くとともに、少しだけ嬉しい気持ちになってしまう。
 今まで出張というと、秘書の三見も一緒だろうとばかりおもっていたが、そうではなく、単身で行っていたのだろう。

 なにもない、という言葉を裏付けるような台詞を不意に得たことで、沙織は少しだけ心が落ち着かなくなる。
 つまり守頭は、どんな女性とも一緒に旅行したことがない。

 なら自分が初めての女性として、一緒に旅をしてみたいと考え――いや、そういうことじゃないと頭を振る。

(困ったな、他に頼めそうな人はいないし。だからといって逸樹さんが行かなければクライアントとどう話していいかとか、どう行動すればいいかわからないし)

 第一、沙織はフランス語がまったくできない。
 通訳を雇ったとしても、仕事の内容を理解して案内してくれる相手など、そう簡単にみつからないだろう。

 どんどんと眉尻がさがっていく。自分でも情けない表情になっているのがわかる。

 途方にくれたまま、沈黙だけが二人の間に漂い十分ほど経った後。

「……すまない。俺のわがままだとわかっている。だが、沙織を天童と一緒に行かせたくない。たとえ仕事でも」

 嫉妬か独占欲か、その両方か。どちらにしてもどうしてそこまで守頭がこだわるのか、わかるようでわからず、沙織がうなると、不意に守頭が身をねじって沙織と向き合う。

「二人の間になにかあったらどうするんだ」
「なにもありませんよ。幼なじみですし、別に恋愛感情はありませんし」
「沙織はそうでも、天童は違うかもしれないだろう」

 それは旦那様が逸樹を知らないから、心配になっているだけではと言いかけた時だ。

 不意に両肩を掴まれ、そのまま体重をかけるようにしてソファの上に押し倒されてしまう。

「あの、旦那様?」
「こういうことをされたら、どうするんだ。君の力ではどうにもできないだろう」

 痛みはないが、簡単に振りほどけないほど強く肩を掴んだまま座面に押しつけられ、沙織が目を白黒させていると、守頭はこれ以上ないほど顔をしかめて続けた。

「君が私と結婚したと聞いて、二週間経たず、アメリカから戻ってきたんだ。……たんなる幼なじみのためにそこまですると思うか」
 
 それは、と声がないまま唇が動く。

 どうだろう。よくわからない。
 離婚したら結婚しようだとか、ふざけた調子で好きだから付き合おうと言われたことは何度もあったが、どうせ冗談だと取り合わなかった。

 けれどもし、それが守頭の言うように道化めかせた本気であれば、心配しすぎだと笑って済ませられない話になる。

 守頭からの不意打ちの独占欲に加え、逸樹が沙織に気があるかもしれない証拠を突きつけられ、頭が混乱し、なにを言えばいいのかまるでわからない。

 どうすればいいのかわからず、だけどやめてと守頭を振り払う考えも沸かず、されるまま彼を見上げていると、はあっと熱っぽい溜息をついた後、額と額をくっつけられた。

「沙織」

 色気と熱の籠もった声にドキリとする。

 焦がれて、求めて、でも得られない切なさが、声の響きから感じられて、沙織はどうしてかわからないまま唇をわななかす。
 二人の吐息が混じり合い、湿った空気が肌を撫で、鼓動がうるさいほど高鳴って、頭のどこかがぼうっとする。

 見えるのはただ、守頭の金茶を含む澄んだ瞳だけになり、沙織は知らず息を詰める。
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