お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 刹那。

 互いの間に引力が働いたように、ごく自然に唇と唇が重なり合う。

 いつも硬く結ばれ、引き締まった唇は、けれど触れて見れば意外に柔らかく、しっとりとしていて――心地いい。

 初めてのキスに目を見開いていられたのも数秒で、次の瞬間唇が離れ息を吐けば、吸うのに合わせてまた重なる。
 そうやって二度、三度と繰り返し唇を合わせていく内に、守頭の唇がわずかに舌にずれて、沙織の唇を軽く噛む。

 じんとした痺れが噛まれた場所から広がって、得も言えぬ甘い疼きが唇から体中に広がっていく。

 やがて角度を変えた守頭の唇からそろりと舌が出され、どこか試すように沙織の唇の表皮をなぞる。

 意識してもいないのに、甘い声が鼻から抜けた。

 まるで砂糖菓子を舐め溶かすようにゆっくりと、舌と口で沙織の唇を弄びながら、肩を掴んでいた守頭の手から力が抜け、そのまま手の平を押しつけるように肩から腕をなぞる。

 ゾクゾクとするものが肌を熱くさせ、鼓動も吐息も急いていく。

 角度を変えながら圧を強めていく唇の熱さに、頭の奥がぼうっとしだす。

 驚きに息を詰めていた口が酸素を求めて綻ぶと、滑らかな動きで男の舌が歯列を割って中へと押し入ってきた。
 ぬるつく感触が口腔に入り込み、すくんだまま動かない沙織の舌に優しく添う。

 ――大人のキスだ。
 
 いや、キス自体、初めてするのだが、そういうキスが――より親密で生々しく官能的な口づけがあるというのは、学生時代に女の子たちする内緒話で耳にしていた。

 だけど自分が、こんな風に突然体験することになるなんて、まるで考えていなかった。

 驚きと混乱で思考が滅茶苦茶になっているけれど、嫌だとは思わなかった。

 沙織に抵抗の意思がないと知ったのだろうか、そっと含ませては内部をなぞるだけだった守頭の舌が、そっと沙織のそれに絡みだす。

「んっ……ふ、ぅ……う」

 旦那様? と問いかけたつもりなのに、自分のものとは思えないほど甘い声が漏れて、沙織は恥ずかしさに頬を火照らせる。
 舌と舌が絡まり擦り合うごとに熱と熱が同化していって、蕩けるような心地を味わわされる。

 粘膜同士がすりあわされる水音が淫らに響いた。

 理性ではいやらしいと思うのに、心は勝手に興奮しだし、そんな自分が信じられない。
 そのうち、息苦しさと心地よさの波にさらわれ続けた意識が白濁し始める。

 どうしてだろう。

 お互いに好意があるかどうかも定かではない異性とのキスに、離婚しようと決めている夫からの口づけに、訳がわからないほど翻弄されている。

 ふわふわとしだす思考で自分が失われていくのが怖くて、沙織は無意識に手を伸ばし、守頭の背にすがりつく。
 と、それが合図だったように彼は口づけを解き、わずかに上がった呼吸を整えようともせず、沙織の額に自分の額を重ねたまま告げた。

「……こんな風に簡単に口づけを許して。どこが大丈夫なんだ」
「それ、は」

 互いの荒れた呼吸音と、高まったまま戻らない鼓動ばかりがうるさい中、沙織はぼうっと視線をさまよわす。

「行かせたくない。心配で頭がおかしくなりそうだ」

 いいながら沙織を抱き寄せ、腕の中に閉じ込めてしまいながら守頭が切なげにつぶやく。

「でも、仕事……が」
「わかっている」

 ソファの座面に散り乱れた沙織の髪を指で撫で、同時に首筋に顔を埋めつつ守頭は繰り返す。

「さっきも言ったが、別にフランスに行くことを反対している訳じゃない。……俺以外の男と二人きりにするのが嫌なだけだ」

 それはどうして?
 夫だから? 結婚した相手が誰かと噂になると世間体が悪いから?
 それとも――。

 ふと頭に浮かんだ一つの可能性を、沙織はあわてて思考から追い出す。

(そんなはずない。旦那様が、私を好きだなんて)

 だけどそうとしか思えない行動や言動が、沙織を悩ませる。

 好きなのか。本当に。だとしたらいつからか? 本気なのか。離婚しないための演技なのか。
 そして自分はどうなのか。

 キスは嫌じゃない、こうして抱き締められるのも不快ではない。むしろ逆で心地よい。
 二人で過ごす時間は穏やかで、くつろげて、それで――。

 どんどん自分がわからなくなっていく。どうしたいのか、どう思っているのか。

 沙織が困惑の中、答を出せずぼうっと視線を彷徨わせていると、守頭が長い溜息を落としてゆっくりと身を起こしこう言った。


 ――だから俺も、沙織と一緒にフランスに行く。と。
< 34 / 52 >

この作品をシェア

pagetop