お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
8.
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 ひな飾りを二億で買う。

 その申し出があったことを守頭と一緒に耳にしてから、どこか――例えるなら、時計のネジに砂粒が混ざり込んだように、二人の間がギクシャクし始めた。

 夫婦として機能していない訳ではないが、どこか互いに遠慮があり、その話を――一億で沙織の夫を買った話を、あるいは、一億で沙織が自分を買い戻し、離婚する決意をしていたことを――するのを、あからさまに避けていた。

 日が経つと、もう、お互いの顔を合わせておはようというのもどこかよそよそしく、そうなると家に帰る時間も互いに遅くなり。
 ちょうど、アメリカやヨーロッパの企業が決算報告となる一月末に入ったことから、守頭も家を空けがちになり、二人はたちまちに元の距離に――一年前の、夫婦ですらなかった頃に戻っていた。

(このままでは、絶対によくない)

 それは心の底からわかっている。だけど、自分の気持ちをどう言葉にすればいいのか、伝わるのか、不安で怖くて声が出ない。
 守頭がいない家のリビングで、ガラスケースの中の男雛を前に、着物姿で正座したまま沙織は思考を巡らせる。

 好きだから、どう伝えていいのか悩む。好きだから、怖い。

 言葉は爆弾のようなもので、伝え方一つ、表現一つ間違っただけで爆発し、溝を作り、溝はたちまち亀裂になって取り返しの付かない別れになる。

 それを知っているからこそ、沙織は悩む。

「離婚したく、ない。そう言っていいのでしょうか」

 見ようによっては微笑んでるようにも、冷たく表情を凍らせているようにも見える男雛に問いかける。

 自分から言い出したのに、今更嫌だと言って呆れられないだろうか。嫌われないだろうか。
 そんなことばかり考えて、ちっとも前に進めない。
 だけど、このままにしていていい訳でもない。

 先方は、返事はまだか、金が不足ならまだ出せると矢の催促で、もう少し時間をと社長として交渉を粘る逸樹の表情も、日に日に曇りだしている。

「いろんな人を悩ませて、選択次第では傷つける」

 だから怖い、怖くて言い出せない。
 目を閉じ、大きく息を吐いて、それから何度か深呼吸をする。

 怖いけど、言わなくてはならないだろう。
 ――そもそも、どうして自分は離婚したかったのか。

(自由が、欲しかった)

 妻として家事をする他は、娘の頃と変わらずお稽古事にそこでの社交。
 同じ日々の繰り返しが一生続くかと思うと息が詰まり、このまま死ぬのは嫌だともがき羽ばたきたくなった。

 だから、まず離婚しようとおもった。

 形だけの夫婦、名ばかりの結婚であるなら、もう義務は果たした。
 守頭は社交界に出入りを果たし、そこでクライアントを捕まえて、飛ぶ鳥を落とす勢いで会社を成長させている。
 それが彼の望みなら、もう自分がいなくてもいいじゃないか。一度だって、一緒に社交の場に出たこともないのだから。結婚してようが離婚してようが同じだ――そう考えていた。

 実際は、三見が裏で手を引いて、二人をすれ違わせ、こじらせていただけなのだが。

 それも片付いた今、残された問題を、自由について考える。

 ――違うことをしたかった。父親に反対され、制限され、できなかったことを。

 働きたかったし、旅行に行きたかった。
 パーティー以外のごく普通の場所で、西洋の、あるいは名も知らない国の料理を食べて、美味しいとおもったり、びっくりしたり。
 誰かと一緒に料理して、遊びに行って、あれだこれだと会話して、それから恋をしたかった。
 でもそれは、離婚しなければできないことだろうか。

 答は否だ。

 もうとっくに叶っている。叶えられている。守頭のおかげで。
 だったら、離婚する必要はない。沙織は思う。だけど。

「旦那様も、離婚したくないと考えてくれているのでしょうか」

 応えるはずもない人形に、男雛に問いかける。それが守頭であるかのように。
 端から見ると奇異な光景だが、こんなこと話せるのは守頭ぐらいしかいない。そして守頭が当事者なら、せめても、彼に似た人形に相談するしかないではないか。

 同じ事を考え、悩み、思考がぐるぐる回るうち、時計の針は日付をまたいでいて。

(ちょうど今なら、ランチタイムで時間があるかも)

 アメリカに行っている守頭の行動を予測した時には、袂からスマートフォンを出していて、指は無意識に彼への番号を掛ける。
 電話はしなくていいと言われていた。
 国際電話で時差があるから、無理に起きていなくてもいいと。だけどこんな悩みを抱えたまま寝ても、眠れないし、眠れたとしてもろくな夢を見なさそうだ。

 だったら、直接話すしかない本人と。

 離婚したくない、とは言えない。顔を合わせずに話す内容ではないし、電話では表情がわからないから誤解を生むかもしれないのも怖い。
 だからせめて、相談する時間だけは取りたいと伝えよう。

 そう決意したのに、いつまで経っても守頭はでない。
 諦めて通話を切って、SNSのメッセージアプリを開く。

 おはよう、おやすみ、それだけの素っ気ない――一年前とまったく変わらない、業務連絡じみたやりとりばかり並ぶ中、沙織は何度か指を迷わせてから文字を入力する。
 

 ――会いたい。話したいです。旦那様。
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