〜Midnight Eden〜 episode3.【夏霞】
 久々に食べた祖母の手料理の満腹感と、網戸越しに吹き抜ける夜風の心地よさに誘われる眠気。若草色の畳に寝そべって風鈴の音に耳を傾ける。

うとうとと眠りの入り口に一歩入りかけた美夜の耳に、マナーモードの着信音が届いた。着信画面に表示された名前は意外な人物。

「……もしもし」
{木崎だけど。電話平気?}

 木崎愁の低く抑揚のない口調は電話を通すと一段と機械的に聴こえた。互いに連絡無精の質らしく、連絡先を交換した後も1ヶ月は連絡が途絶えていた。

「はい。今日は休みなんです。友達の結婚式で埼玉に……」
{友達いたのか}
「けっこう酷いですよね」
{友達必要なさそうな顔してるだろ}
「木崎さんもお互い様じゃないですか」

電話の向こうで愁が笑っている気配がした。窓際でだらんと両手足を伸ばして寝ていたちゃちゃ丸が、上半身を起こした美夜の膝にひょいっと飛び乗った。

{今はまだ埼玉?}
「埼玉の戸田市にある祖母の家にいます。結婚式の会場は川口でした」
{戸田市が埼玉のどこら辺なのか、位置関係がわかんねぇな}
「ですよね。戸田市は荒川の側にあって、荒川挟んだ向こうは東京ですよ。……あ、ちゃちゃ丸、テーブルに乗らないの! 紅茶こぼれちゃうでしょっ!」

 美夜に顎や頭を撫でてもらった彼は、機嫌良くジャンプしてテーブルに着地した。水出しの紅茶のグラスと食べかけのバウムクーヘンの隣を陣取るちゃちゃ丸は、してやったりな顔で笑っていた。

{……ちゃちゃ丸?}
「祖母が飼ってる猫です。ちゃちゃ丸って言って十二歳のオス」
{あんたも猫相手だと口調が変わるんだな}
「そうですか?」
{そうやって猫相手に喋ってると普通の女に思える}
「さっきもそうですけど木崎さんて、なかなか失礼な人ですよね」

木崎愁は無礼で不躾で口が悪い。相手が違えば不愉快になる発言も、愁だと怒る気にもなれない。

「今日はどうしたんですか?」
{折り入って頼みがある。聞いてくれるか?}
「内容によりますね。一応、用件は聞きますよ」
{1日だけ恋人のフリをしてもらいたい}
「……はぁ?」

 予想外の突飛な頼みにすっとんきょうな声が出てしまう。ちゃちゃ丸も首を傾げていた。

{自慢じゃねぇが、俺を好きな女子高生がいるんだ。そいつとは訳あって一緒に暮らしているんだが……}
「待ってください。まずどうして女子高生と一緒に暮らしているんです? ご親戚ですか?」
{事情は追々話すが親戚じゃない。そいつの兄貴とも一緒に住んでる。端的に言って俺は保護者代わり}

 親戚ではない兄妹《きょうだい》と同居する事情は想像もつかない。職業柄、複雑な問題を抱える家族にも遭遇するが、三十代の独身男性と血の繋がらない十代の少女が、ひとつ屋根の下で暮らす状況は正常か異常なら異常の部類に入る。
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