〜Midnight Eden〜 episode3.【夏霞】
浴室の窓から射し込む茜色の光は夏の夜の短い序章。包まれた固形石鹸の匂いはどこまでも優しい香りだった。
ブーケの花はさっそく花瓶に生けられている。東京に持って帰っても枯らしてしまうだけ。花も祖母の家で咲いていたいだろう。
食卓に用意された祖母の手料理も食に無関心な美夜の数少ない好物ばかり。冷めた両親の代わりに愛情を注いでくれたのは、いつだって祖父母だった。
「お母さんとは最近会った?」
「栄子《えいこ》は滅多に来ないよ」
母の話になると祖母の返しは素っ気ない。
美夜の母、神田栄子はこの家の長女。町で一番の秀才だった栄子は、かつて神童と呼ばれていたらしい。優等生の道を歩む彼女は教師となり、川口市内の学校で教職を続けている。
この町に古くからある家のほとんどが栄子の小学校や中学校の同級生の実家だ。隣の家も向かいの家も、栄子の同級生や後輩の実家。
未だに強固な繋がりを残す地元のコミュニティでは、栄子の元夫が援助交際をしていたことも相手が娘の同級生だったことも、それによって別居と離婚を経験したことも広まっている。
当然、栄子の娘の美夜が東京の国立大学を卒業後に刑事になった話も広まっていた。
配偶者の選択の失敗は、正解しか知らない栄子の屈辱だった。栄子が地元に帰らない理由も噂話の的にされるのを恐れてのこと。
美夜も生まれ故郷の蕨《わらび》市に良い思い出はない。高校まで美夜が暮らしていた一軒家はすでに売却されている。
蕨市に美夜の実家と呼べる場所はなく、父は蕨市に在住しているが会いたいとは思わない。
何年も親の顔を見なくても平気で生きていられる。その点で美夜と栄子は似た者同士だった。
「ねぇ、おばあちゃん。お母さんはどうして私に勉強しろって厳しく言ってきたのかな」
「私も死んだじいさんも、学がないせいでずいぶん苦労したんだよ。だから悟《さとる》と栄子には良い成績を取って良い学校に入れと、そればかり言ってきた。それが正しいと私達が押し付けてしまったんだ」
一般論では、虐待されて育った子どもは虐待をする親になりやすいとされる。親から受けた教育を、そのまま自分が親になった時にトレースしてしまうのだ。
母も自分が選んだ答えは不正解じゃないと、美夜の子育てを通して証明したかったのかもしれない。
「栄子は教師になったけれど、それが良かったのかどうか。あの子には慈しみの感情が欠けていたんだよ」
「慈しみか。それなら私にもないかもしれないね」
足元にすり寄ってきたちゃちゃ丸は美夜に思う存分甘えている。
縞《しま》模様のふわふわとしたネコの毛は優しさの塊。この塊に触れるだけで温かい気持ちになれた。
「そこまで猫を可愛がれる子に慈しみがないとは思わんよ」
「……動物は裏表ないから」
動物は裏切らない。人間は簡単に裏切る。
だから人間に優しくするのは難しい。
ブーケの花はさっそく花瓶に生けられている。東京に持って帰っても枯らしてしまうだけ。花も祖母の家で咲いていたいだろう。
食卓に用意された祖母の手料理も食に無関心な美夜の数少ない好物ばかり。冷めた両親の代わりに愛情を注いでくれたのは、いつだって祖父母だった。
「お母さんとは最近会った?」
「栄子《えいこ》は滅多に来ないよ」
母の話になると祖母の返しは素っ気ない。
美夜の母、神田栄子はこの家の長女。町で一番の秀才だった栄子は、かつて神童と呼ばれていたらしい。優等生の道を歩む彼女は教師となり、川口市内の学校で教職を続けている。
この町に古くからある家のほとんどが栄子の小学校や中学校の同級生の実家だ。隣の家も向かいの家も、栄子の同級生や後輩の実家。
未だに強固な繋がりを残す地元のコミュニティでは、栄子の元夫が援助交際をしていたことも相手が娘の同級生だったことも、それによって別居と離婚を経験したことも広まっている。
当然、栄子の娘の美夜が東京の国立大学を卒業後に刑事になった話も広まっていた。
配偶者の選択の失敗は、正解しか知らない栄子の屈辱だった。栄子が地元に帰らない理由も噂話の的にされるのを恐れてのこと。
美夜も生まれ故郷の蕨《わらび》市に良い思い出はない。高校まで美夜が暮らしていた一軒家はすでに売却されている。
蕨市に美夜の実家と呼べる場所はなく、父は蕨市に在住しているが会いたいとは思わない。
何年も親の顔を見なくても平気で生きていられる。その点で美夜と栄子は似た者同士だった。
「ねぇ、おばあちゃん。お母さんはどうして私に勉強しろって厳しく言ってきたのかな」
「私も死んだじいさんも、学がないせいでずいぶん苦労したんだよ。だから悟《さとる》と栄子には良い成績を取って良い学校に入れと、そればかり言ってきた。それが正しいと私達が押し付けてしまったんだ」
一般論では、虐待されて育った子どもは虐待をする親になりやすいとされる。親から受けた教育を、そのまま自分が親になった時にトレースしてしまうのだ。
母も自分が選んだ答えは不正解じゃないと、美夜の子育てを通して証明したかったのかもしれない。
「栄子は教師になったけれど、それが良かったのかどうか。あの子には慈しみの感情が欠けていたんだよ」
「慈しみか。それなら私にもないかもしれないね」
足元にすり寄ってきたちゃちゃ丸は美夜に思う存分甘えている。
縞《しま》模様のふわふわとしたネコの毛は優しさの塊。この塊に触れるだけで温かい気持ちになれた。
「そこまで猫を可愛がれる子に慈しみがないとは思わんよ」
「……動物は裏表ないから」
動物は裏切らない。人間は簡単に裏切る。
だから人間に優しくするのは難しい。