〜Midnight Eden〜 episode3.【夏霞】
Act2. 金魚、散る
8月5日(Sun)

 JR横須賀線の線路と並行する県道21号線を走る車が北鎌倉駅の前を通過した。

 夏期休暇シーズンの鎌倉にはちらほらと、地元の人間ではない装いの者達が額に汗を浮かべながら歩いている。
現在の気温は30度を越えている。暑い日中にわざわざ寺巡りや海水浴をする人間の気がしれない。

片側一車線の県道をしばらく直進した車は、やがて左に折れ、細道をのろのろと突き進む。ここまで来れば観光客の姿は見えず、地元の人々のいつもと変わらない日常の時間が流れていた。

 この辺りは地形的に高低差があり住宅街の道は坂が多い。道幅の狭い坂をゆっくり上っていくと、小綺麗な住宅の中で一際目立つ屋敷があった。

敷地の周りを背の高いウッドフェンスで囲んだ南欧風の屋敷には、二台分の駐車スペースを有したガレージがある。
車が一台停まっている。木崎愁はその隣に自分の車を駐めた。

 車を降りた途端に耳に届く蝉の合唱。一体どこで鳴いているのか、姿を見せずに声だけで命の主張をする彼らは、寿命を終えて死体となった頃に初めて人間界に姿を見せる。

 出迎えの者はいなかった。勝手に鍵を開けて勝手に家に上がった愁は、家主がいるであろうリビングに迷わず向かう。

外観は南欧風でも内装は和風の要素が強い。モダンなインテリアに囲まれた畳敷きのリビングでは、家主の夏木朋子《ともこ》が寛いでいた。

『遅くなって申し訳ありません』
「時間通りよ」

 愁を一瞥した朋子は腰を上げた。外ではあれだけ蝉がうるさく歌っているのに、外界の出来事を遮断したこの空間に蝉時雨は届かない。

「待っていて。お茶の用意をしてくるわ」
『俺が淹れますよ』
「あなたの方が手際がいいのはわかっているわよ。でも最近はね、お茶も自分で淹れたりするの」

 朋子は家事もろくにしたことがない生粋のお嬢様だ。資産家の家に生まれた彼女は二十一歳で夏木十蔵と結婚、16年前から鎌倉のこの家に一人で暮らしている。

通いの家政婦も土日は休み。還暦を前にして、朋子もようやく自分の衣食住の世話を自分で行うようになったらしい。

 座椅子に掛けた愁は窓の外に目を向ける。広々とした庭には夏の花、サルスベリが咲いていた。
小さな花を枝に敷き詰めて咲き誇る白いサルスベリは、木に降り積もった雪に似ている。

「今年も綺麗に咲いたでしょう?」

 朋子がトレーに載せて運んできたのはグラスに注がれた普通の麦茶だ。これくらいのことで茶を淹れられるようになったと得意げになる朋子は、いい年をして未だに世間知らずなお嬢様を脱却できない。

「ここに来るとあなたはいつも庭を見ている。死体が掘り起こされていないか確認しているのかしら?」
『どうせとっくの昔にサルスベリの養分になっていますよ。掘り返せば骨は出てくるでしょうが』
「あそこに自分の母親が埋まっているというのに、ぞんざいな言い方ね」

 ふわふわとした愛らしいサルスベリには見た目に反して、人の魂が宿る、人の生気を吸いとるなどの迷信がある。家の庭に植えると縁起が悪いとされて庭木には好まれない花だ。
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