〜Midnight Eden〜 episode3.【夏霞】
『舞だって神田さんが偽物の彼女だと見抜いていますよ。どう見てもあの人は演技がヘタクソでした。でも舞がショックを受けたのは、嘘をつかれたことや愁さんに振られただけではないんじゃないかな。舞の前で神田さんとの結婚を匂わせたのが嘘だとしても、俺でさえ、あの時の愁さんは本気に見えました』
普遍的な幸せを拒絶して生きてきた愁が口にした結婚の一言は、伶と舞の心に深い衝撃を与えた。
あの時の心情を問われても愁は答えない。無言の愁にこれ以上の押し問答はやぶ蛇だと悟った伶は、自《みずか》ら引いて話を変えた。
『この前、鎌倉行っていたんですよね。朋子さんの様子はどうでした?』
『変わらずだ。旦那と別れた途端に生き生きする女の典型だな』
『薄々感じていたんですが、愁さんと朋子さんって……』
言葉の先を言い淀む伶の言いたいことは察しがつく。
『お前の想像通り。俺が十五の時から関係が始まってる』
『会長は気付いているんですか?』
『気付くも何も会長公認だ。頭のおかしな夫婦だろ?』
朋子の愁を見る目付きは完全に雌《メス》の目付きだ。愁と朋子が共にいる場に居合わせれば、勘の良い人間は隠された関係に気付く。それくらい朋子が愁に向ける好意の矢はわかりやすい。
『お前も地獄を見たくねぇなら、この件には知らないフリを通して口を挟むな。いいな?』
『わかりました。けど神田さんは、朋子さんとのことは知らないんでしょう?』
『わざと聞いてるよな?』
『わざとです』
ポーカーフェイスの愁と微笑する伶の対峙。伶はどうしても美夜に関した核心を突く言葉を言わせたいらしいが、奥に潜ませた心の声を伶に語り聞かせる筋合いはない。
『あの女は何も知らない』
『愁さんの“仕事”も?』
『知っていたら俺と関わりを持とうとしないだろ』
伶が知らない事実がまだある。伶と舞の前では、仕事は区役所の職員と名乗っていた美夜の本当の職業は警察官。
美夜は、愁が決して出会ってはいけない部類の女だった。
ドアノブに触れた伶は、開きかけた扉を閉じて顔だけを後ろに向けた。
『愁さんは恋人を殺せと言われたら殺せますか?』
『相手が誰であれ仕事は遂行する』
『……ぶれませんね。支度の邪魔をしてすいません。仕事、気を付けて』
扉が閉じた音を合図に愁はデスクの椅子に深く腰掛けた。ひとりきりになった部屋に残留する女の粒子が彼を包み込む。
花火に照らされた美夜の横顔が綺麗だと思った。キスをしたいと思った。彼女が欲しいと思った。
柄にもない衝動的な己の思考に呆れた愁の瞳は、書棚の小説の背表紙を捉えている。その古びた小説はシェイクスピアの不朽の名作、ロミオとジュリエット。
夏の夜に狂い咲いた夕顔の想いに気付いた時には、もう遅い。何もかも。
普遍的な幸せを拒絶して生きてきた愁が口にした結婚の一言は、伶と舞の心に深い衝撃を与えた。
あの時の心情を問われても愁は答えない。無言の愁にこれ以上の押し問答はやぶ蛇だと悟った伶は、自《みずか》ら引いて話を変えた。
『この前、鎌倉行っていたんですよね。朋子さんの様子はどうでした?』
『変わらずだ。旦那と別れた途端に生き生きする女の典型だな』
『薄々感じていたんですが、愁さんと朋子さんって……』
言葉の先を言い淀む伶の言いたいことは察しがつく。
『お前の想像通り。俺が十五の時から関係が始まってる』
『会長は気付いているんですか?』
『気付くも何も会長公認だ。頭のおかしな夫婦だろ?』
朋子の愁を見る目付きは完全に雌《メス》の目付きだ。愁と朋子が共にいる場に居合わせれば、勘の良い人間は隠された関係に気付く。それくらい朋子が愁に向ける好意の矢はわかりやすい。
『お前も地獄を見たくねぇなら、この件には知らないフリを通して口を挟むな。いいな?』
『わかりました。けど神田さんは、朋子さんとのことは知らないんでしょう?』
『わざと聞いてるよな?』
『わざとです』
ポーカーフェイスの愁と微笑する伶の対峙。伶はどうしても美夜に関した核心を突く言葉を言わせたいらしいが、奥に潜ませた心の声を伶に語り聞かせる筋合いはない。
『あの女は何も知らない』
『愁さんの“仕事”も?』
『知っていたら俺と関わりを持とうとしないだろ』
伶が知らない事実がまだある。伶と舞の前では、仕事は区役所の職員と名乗っていた美夜の本当の職業は警察官。
美夜は、愁が決して出会ってはいけない部類の女だった。
ドアノブに触れた伶は、開きかけた扉を閉じて顔だけを後ろに向けた。
『愁さんは恋人を殺せと言われたら殺せますか?』
『相手が誰であれ仕事は遂行する』
『……ぶれませんね。支度の邪魔をしてすいません。仕事、気を付けて』
扉が閉じた音を合図に愁はデスクの椅子に深く腰掛けた。ひとりきりになった部屋に残留する女の粒子が彼を包み込む。
花火に照らされた美夜の横顔が綺麗だと思った。キスをしたいと思った。彼女が欲しいと思った。
柄にもない衝動的な己の思考に呆れた愁の瞳は、書棚の小説の背表紙を捉えている。その古びた小説はシェイクスピアの不朽の名作、ロミオとジュリエット。
夏の夜に狂い咲いた夕顔の想いに気付いた時には、もう遅い。何もかも。