〜Midnight Eden〜 episode3.【夏霞】
 赤坂二丁目の自宅まで美夜を送り届けた愁は、花火の余韻が残る街で煙草をふかしていた。

港区では公共の場所での喫煙は条例で禁止されている。そんな条例くそ食らえだと、ルールを破る側の人間である自覚が彼にはあった。
ルールを守れる人間ならば、そもそも人殺しはしない。

 この細道を直進すれば氷川坂に出るが、今しばらくは家に帰りたくない気分だ。

 煙草のフィルターの一部が薄紅色に色付いていた。紅色に紛れて、ラメのようなパールのようなものがちらちらと瞬《またた》いている。
色の正体がキスで色移りした美夜のルージュだと理解した愁は失笑し、色付いたフィルターを唇に挟んだ。

 ガードパイプに腰掛ける彼の視線の先には、勝海舟と坂本龍馬の師弟像がある。偉人の銅像の前で堂々と煙草を咥える男は、ワイドパンツのポケットで振動するスマートフォンに顔をしかめた。

{仕事用の携帯に何度かけても出なかったので}
『悪い。あっちのスマホ持って出るのを忘れた』

白色のスマートフォンを鳴らした相手は日浦一真だ。仕事用の黒色のスマホはデスクの引き出しの底で主の帰りを待っている。

{今はおひとりですか?}
『家の近くで花火見物した後の帰り。伶も舞もいねぇよ。……仕事か?』
{ええ。1時間後に会長の家に来られますか?}
『1時間あるなら余裕』

 刑事とキスをした直後の殺人の仕事。上手く言葉にできない感情が、紫煙の溜息となって光のない夏空に消えた。

 いつもより重たい足取りで帰宅した愁を出迎える姿はない。静かな廊下を曲がって自室に帰りついた彼は、出掛ける準備を始めた。

この感覚は情事の直後に似た、夢の終わりの覚醒。冷めた憂鬱の正体は部屋と服に住み着く女の匂いだ。
美夜の匂いが染み込んだサマーセーターを脱ぎ捨て、誰にも染まらない黒のワイシャツに袖を通す。

 遠慮がちなノックの後に部屋を訪ねてきたのは伶だ。

『仕事ですか?』
『戻りは朝方になる』
『一夜漬けならけっこうな人数ですね』
『この熱帯夜に組ひとつぶっ壊せって命令だ。ジジィは相変わらず人使いが荒い。……何か言いたげな顔だな』

カフスボタンを留める愁を、伶は扉を背にして見据えている。そうやって扉の前で仁王立ちされていては出るに出られない。わざとだろう。

『あの人が彼女って嘘ですよね』
『舞には言うなよ』
『厄介なことになるから言いませんよ。あの人とは本当はどんな関係なんです?』
『単なる顔見知り』

 表の仕事ではないからネクタイは必要ない。身につける装飾品は腕時計とサングラス、ジャケットのポケットには煙草とライターを詰めた。

『顔見知り……ですか。それにしては……』
『なんだよ』
『まさかとは思いますけど、愁さんは演技じゃなかったんじゃないかって』
『何が言いたい?』

 伶のまわりくどい言い回しは、しばしば愁を苛つかせる。愁の苛つきは承知の上で話を切り上げない伶の強情さも、妹の舞を思うがゆえ。
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