気紛れ天使 【君に会えたあの夏へ戻りたい】
体を洗ってからまた湯に浸かる。 空がだんだんと宵闇に包まれていく。
やっぱり東北だ。 都会ではこんな闇は見ることすら叶わない。
木戸の隣には古い時計が掛けられていて寛子は時々それを見ながらボーっとしている。 空気も冷たくなってきた。
湯に浸かってぼんやりしている寛子の横顔を覗いてみる。 どっか寂しそうにしている。
純一郎の視線に気付いたのか、寛子が彼のほうを向いた。
「私、両親を知らないんです。」 「え? 親を知らない?」
「女将の話では生まれてすぐ乳児院に引き取られたそうなんです。 そして養護施設を出た後で女将の養女になったんですよ。」 「何でまた?」
「分かりません。 誰の子なのかも。」 そう言うと寛子はまた俯いてしまった。
純一郎はほっとけなくなって寛子の肩を抱き寄せた。 どこかに自分の旧知であるような気がして。
やがて6時のチャイムが鳴った。 「すいません。 厨房の様子を見てきます。」
そう言って寛子は湯を出ると服を着て木戸の向こうへ消えていった。
それからしばらくして純一郎も服を着込んで木戸を出た。 いつの間にか石灯篭にも火が灯っていた。
遠くで小川のせせらぐ音が聞こえる。 その音に混じってコン コンという乾いた音も聞こえてくる。
「鹿威しか。 なかなか風流な宿だなあ。」 その音に聞き惚れていると寛子の声が聞こえた。
「お客様 お食事の準備が出来上がりました。」 振り返ると窓を全開にして寛子が顔を出している。
その後ろで女中たちが夕食を並べているのが見える。 「豪勢だなあ。」
部屋に入ると寛子が小鍋に火を入れるところだ。 「今夜は山菜の煮ものと鮎の焼き物、それに味噌鍋が付いてますのでごゆっくりお楽しみください。」
「寛子ちゃんは?」 「私も一緒に戴きます。」
そして照れたような顔で寛子も箸を取った。 「美味そうだなあ。」
「この山菜は女将が摘んできた物なんです。」 「へえ、、、。」
「女将は「自然の物を戴きましょう。」って言う人なんですよ。 だから買い物は最小限で、、、。」 「この鮎は?」
「これは近くの人が釣ってきた物を分けていただいたんだそうです。」 「やるもんだね。」
純一郎は感心した顔で吸い物を啜った。 「やっぱり山の幸は美味いなあ。」
その頃、東京では家政婦の美紀が一人寂しく夕食を食べていた。 「今夜もまた遊んでるんだろうなあ。」
点けてあるテレビはいつものようにバラエティーショーを映している。 美紀はそれをぼんやり見ながらハンバーグを摘まんだ。
この家に家政婦として住み込んでからもう10年。 親父は美紀には手を付けなかったという。
それが美紀にも不思議だった。 ちょうど母さんが死んだ後のことだから、、、。
納骨を済ませたあの日、親父は美紀に言ったらしい。 「私はもう長くない。 純一郎と仲良くやっていくんだよ。」
言った通り、親父は3年ほどで逝ってしまった。 そして今年は七回忌だ。
8月25日、我が家で親父の七回忌をすることになっている。 昼間は美紀もその準備に追われていた。
「七回忌も近いっていうのに暢気なもんよねえ。 まあ海外で働いてきたんだから文句は言わないけどさ、、、。」 注いでおいたビールを飲みながら美紀はどこか不満である。
「お父さんの納骨を済ませたあの日、私は思い切って飛び込んだのよ。 それ以来ずいぶんと可愛がってもらったわ。 けど、、、。」 どうしてもやり切れない歯がゆさが込み上げてくる。
入籍するまでもなく婚約を交わすまでもなく何度となく夜を共に過ごしたはずなのに、今夜は旅館に泊まっている。 そこがどういう旅館なのかも知らずに、、、。
田沢湖と言えばお父さんも骨休めでよく行ってたわよね。 そのたびに土産を買って来てくれていた。
桐箪笥、、、じゃなくてきりたんぽもよく食べたわ。 純一郎さんはどうなんだろうなあ?
夕食を済ませた後、酔った頭を冷やそうと純一郎は外へ出た。 風が冷たい。
遠くの山々は宵闇にすっぽりと隠れてしまって不気味さすら感じさせている。 その中に鹿威しの切り裂くような音が聞こえている。
耳を澄ますと女たちの甘える声があちらこちらから聞こえてくる。 「おー、そうかそうか。 お前も可愛い女じゃのう。」
時代劇に出てきそうないやらしいじいさんが姉っこを相手に遊んでいる。 暗い夜空には半月が静かに瞬いている。
静かにドアが開いて小さな足音が近付いてきた。 「三日月 きれいですね。」
後片付けを済ませた寛子が庭へ出てきたのだ。 じいさんと酒宴は盛り上がる一方である。
「まだやってるんですねえ。 女将には止めるように言われているのに、、、。」 「何万も小遣をくれるんだろう? それじゃあ止められないよ。」
「お金が欲しくて体を売るなんて汚らわしいわ。」 寛子は小さく溜息を吐いた。
小さな庭は掃除も行き届いていて何とも気持ちがいい。 竹で組んだ垣根に沿って石灯篭が佇んでいる。
それがまた苔むしているから雰囲気が良く見える。 純一郎は振り返ると寛子の腕を取った。
「何ですか?」 「別にこれって意味は無いんだ。」
「でも、、、。」 「寛子ちゃんを見てると他人とは思えなくなってさ、、、。」
「どういう意味ですか?」 「俺にも分からない。 でもさっき、自分には親が居ないんだって言ってたよね?」
「はい。」 「良かったらさあ俺の妹にならない?」
「純一郎様のですか?」 「よそよそしいなあ。」
「だってまだお客様ですから、、、。」 「そっか。 でも考えてくれよ。」
「まあ、取り敢えずは、、、。」 寛子は純一郎からそっと離れると空を仰いだ。
40分も外に居るとかなり体が冷えてしまう。 それだけ東北の夜は寒い。
部屋に戻った俺たちは布団を敷いて寝ることにした。 「明日は何時に起きられますか?」
「そうだなあ、、、。 7時には起きたいな。」 「分かりました。 7時半には朝食を用意するように伝えてまいります。」
寛子が厨房へ行くのを見送ってから純一郎は布団の上に寝転がった。 それにしても古い旅館だ。
部屋には内外線両用の電話と冷蔵庫しか無い。 無駄な物は何も無い。
静かな空気が辺りを支配している。 時折、その静寂を破って女たちの笑い声が聞こえてくる。
「戻りました。」 物思いにふけっていると寛子が戻ってきた。
「寛子ちゃんも一緒に寝るのかい?」 「お客様が出発されるまでのお世話をさせていただきますので、、、。」
「そうか、、、。 その一環であの女たちは、、、。」 「そうなんですよ。 社長さんとか議員さんとかお金持ちが多いから、、、。」
「寛子ちゃんは?」 「私は今夜が初めてなんです。」
「初めてだって?」 「今まで女将の希望も有って厨房で働いてたんです。」
「初めてか、、、。」 純一郎は寛子を連れてきた女の顔を思い出した。
「夜の相手もさせていただきます。 何分初めてなもんですからお客様のほうで教えてあげてくださいな。」 その意味が少し分かった気がする。
やっぱり東北だ。 都会ではこんな闇は見ることすら叶わない。
木戸の隣には古い時計が掛けられていて寛子は時々それを見ながらボーっとしている。 空気も冷たくなってきた。
湯に浸かってぼんやりしている寛子の横顔を覗いてみる。 どっか寂しそうにしている。
純一郎の視線に気付いたのか、寛子が彼のほうを向いた。
「私、両親を知らないんです。」 「え? 親を知らない?」
「女将の話では生まれてすぐ乳児院に引き取られたそうなんです。 そして養護施設を出た後で女将の養女になったんですよ。」 「何でまた?」
「分かりません。 誰の子なのかも。」 そう言うと寛子はまた俯いてしまった。
純一郎はほっとけなくなって寛子の肩を抱き寄せた。 どこかに自分の旧知であるような気がして。
やがて6時のチャイムが鳴った。 「すいません。 厨房の様子を見てきます。」
そう言って寛子は湯を出ると服を着て木戸の向こうへ消えていった。
それからしばらくして純一郎も服を着込んで木戸を出た。 いつの間にか石灯篭にも火が灯っていた。
遠くで小川のせせらぐ音が聞こえる。 その音に混じってコン コンという乾いた音も聞こえてくる。
「鹿威しか。 なかなか風流な宿だなあ。」 その音に聞き惚れていると寛子の声が聞こえた。
「お客様 お食事の準備が出来上がりました。」 振り返ると窓を全開にして寛子が顔を出している。
その後ろで女中たちが夕食を並べているのが見える。 「豪勢だなあ。」
部屋に入ると寛子が小鍋に火を入れるところだ。 「今夜は山菜の煮ものと鮎の焼き物、それに味噌鍋が付いてますのでごゆっくりお楽しみください。」
「寛子ちゃんは?」 「私も一緒に戴きます。」
そして照れたような顔で寛子も箸を取った。 「美味そうだなあ。」
「この山菜は女将が摘んできた物なんです。」 「へえ、、、。」
「女将は「自然の物を戴きましょう。」って言う人なんですよ。 だから買い物は最小限で、、、。」 「この鮎は?」
「これは近くの人が釣ってきた物を分けていただいたんだそうです。」 「やるもんだね。」
純一郎は感心した顔で吸い物を啜った。 「やっぱり山の幸は美味いなあ。」
その頃、東京では家政婦の美紀が一人寂しく夕食を食べていた。 「今夜もまた遊んでるんだろうなあ。」
点けてあるテレビはいつものようにバラエティーショーを映している。 美紀はそれをぼんやり見ながらハンバーグを摘まんだ。
この家に家政婦として住み込んでからもう10年。 親父は美紀には手を付けなかったという。
それが美紀にも不思議だった。 ちょうど母さんが死んだ後のことだから、、、。
納骨を済ませたあの日、親父は美紀に言ったらしい。 「私はもう長くない。 純一郎と仲良くやっていくんだよ。」
言った通り、親父は3年ほどで逝ってしまった。 そして今年は七回忌だ。
8月25日、我が家で親父の七回忌をすることになっている。 昼間は美紀もその準備に追われていた。
「七回忌も近いっていうのに暢気なもんよねえ。 まあ海外で働いてきたんだから文句は言わないけどさ、、、。」 注いでおいたビールを飲みながら美紀はどこか不満である。
「お父さんの納骨を済ませたあの日、私は思い切って飛び込んだのよ。 それ以来ずいぶんと可愛がってもらったわ。 けど、、、。」 どうしてもやり切れない歯がゆさが込み上げてくる。
入籍するまでもなく婚約を交わすまでもなく何度となく夜を共に過ごしたはずなのに、今夜は旅館に泊まっている。 そこがどういう旅館なのかも知らずに、、、。
田沢湖と言えばお父さんも骨休めでよく行ってたわよね。 そのたびに土産を買って来てくれていた。
桐箪笥、、、じゃなくてきりたんぽもよく食べたわ。 純一郎さんはどうなんだろうなあ?
夕食を済ませた後、酔った頭を冷やそうと純一郎は外へ出た。 風が冷たい。
遠くの山々は宵闇にすっぽりと隠れてしまって不気味さすら感じさせている。 その中に鹿威しの切り裂くような音が聞こえている。
耳を澄ますと女たちの甘える声があちらこちらから聞こえてくる。 「おー、そうかそうか。 お前も可愛い女じゃのう。」
時代劇に出てきそうないやらしいじいさんが姉っこを相手に遊んでいる。 暗い夜空には半月が静かに瞬いている。
静かにドアが開いて小さな足音が近付いてきた。 「三日月 きれいですね。」
後片付けを済ませた寛子が庭へ出てきたのだ。 じいさんと酒宴は盛り上がる一方である。
「まだやってるんですねえ。 女将には止めるように言われているのに、、、。」 「何万も小遣をくれるんだろう? それじゃあ止められないよ。」
「お金が欲しくて体を売るなんて汚らわしいわ。」 寛子は小さく溜息を吐いた。
小さな庭は掃除も行き届いていて何とも気持ちがいい。 竹で組んだ垣根に沿って石灯篭が佇んでいる。
それがまた苔むしているから雰囲気が良く見える。 純一郎は振り返ると寛子の腕を取った。
「何ですか?」 「別にこれって意味は無いんだ。」
「でも、、、。」 「寛子ちゃんを見てると他人とは思えなくなってさ、、、。」
「どういう意味ですか?」 「俺にも分からない。 でもさっき、自分には親が居ないんだって言ってたよね?」
「はい。」 「良かったらさあ俺の妹にならない?」
「純一郎様のですか?」 「よそよそしいなあ。」
「だってまだお客様ですから、、、。」 「そっか。 でも考えてくれよ。」
「まあ、取り敢えずは、、、。」 寛子は純一郎からそっと離れると空を仰いだ。
40分も外に居るとかなり体が冷えてしまう。 それだけ東北の夜は寒い。
部屋に戻った俺たちは布団を敷いて寝ることにした。 「明日は何時に起きられますか?」
「そうだなあ、、、。 7時には起きたいな。」 「分かりました。 7時半には朝食を用意するように伝えてまいります。」
寛子が厨房へ行くのを見送ってから純一郎は布団の上に寝転がった。 それにしても古い旅館だ。
部屋には内外線両用の電話と冷蔵庫しか無い。 無駄な物は何も無い。
静かな空気が辺りを支配している。 時折、その静寂を破って女たちの笑い声が聞こえてくる。
「戻りました。」 物思いにふけっていると寛子が戻ってきた。
「寛子ちゃんも一緒に寝るのかい?」 「お客様が出発されるまでのお世話をさせていただきますので、、、。」
「そうか、、、。 その一環であの女たちは、、、。」 「そうなんですよ。 社長さんとか議員さんとかお金持ちが多いから、、、。」
「寛子ちゃんは?」 「私は今夜が初めてなんです。」
「初めてだって?」 「今まで女将の希望も有って厨房で働いてたんです。」
「初めてか、、、。」 純一郎は寛子を連れてきた女の顔を思い出した。
「夜の相手もさせていただきます。 何分初めてなもんですからお客様のほうで教えてあげてくださいな。」 その意味が少し分かった気がする。