気紛れ天使 【君に会えたあの夏へ戻りたい】
8時を過ぎて女中たちが部屋の掃除を始めたらしい。 あっちでこっちで賑やかな話し声が聞こえる。
「ねえねえ、寛子が付いたあの人さあ、ロスに行ってたって言ってたわよね?」 「どうせ偽ブランドの買い物でもしてきたんでしょう?」
「女将に聞いたらさあ商社の社長さんなんだって。」 「え? 商社の?」
「そうなの。 それで台所用品とかの商談をしてきたんだってよ。」 「ふーん。 だから何?」
「いいじゃない。 気が向いたら集ってやればいいんだから。」 そんな話し声が聞こえてくる。
庭のほうでは女将が盆栽の手入れをしている。 ずっと動き回っている。
「女将は休まないのかなあ?」 「起きてる間はああしてずっと動き回ってます。 食事の時だけですね 休むのは。」
「そっか。 それにしても女中たちは悪過ぎるなあ。」 「そこがちょっと、、、。」
寛子も顔を曇らせてしまった。 と、そこへあの女がやってきた。
「お客様、今日はどうされますか?」 「って言っても予定は無いよ。」
「あらあら、もったいないですねえ。 こんなに天気もいいのに。」 「お散歩なんてどうですか?」
「お散歩?」 「そうねえ。 八幡平も見えるしいいんじゃないかしら?」
「八幡平か。 いいね。」 「ではお弁当を作るように伝えてきますね。」
寛子が部屋を出ていった時、女が純一郎に耳打ちをした。 「あの子は女将とあなたのお父さんの子です。」
「何だって? ほんとかい?」 「今まで誰にも言わなかったんです。 女将が私にだけ教えてくれました。」
「でもあの子は、、、。」 「寛子ちゃんにはまだ言わないでください。 女将からその時が来たら打ち明けるはずですから。」
「分かった。 けどあなたの名前は、、、?」 「私は安本美織です。 よろしく。」
女が頭を下げて庭に出ていったところに寛子が帰ってきた。
「9時には用意するそうですから9時半くらいに出掛けましょうか。」 「そうだね。」
美織は石灯篭を磨きながら寛子を見守っている。 その目はどこか母親のような、、、。
旅館の中では相変わらず女中たちが走り回っている。 「そんなに走らなくてもいいでしょう?」
「だって走らないと間に合わないんだもん。」 「あなたが寝坊するからいけないのよ。」
「そんなこと言ったって、、、。」 「真夜中まで遊んでたんでしょう? 少しは考えなさい。」
女将も苦しそうな顔で女中たちを見ている。 「何年働いても分からないのね。」
食堂も最後の客が食事を済ませてやっと静かになった。 庭の遠くでは今日も鹿威しの空気を切るような音が静かに聞こえている。
この辺りは滅多に車が走ることも無い。 手付かずの自然がそのままに残されている山里である。
山のほうでは時々熊だって散歩している。 昔ながらの里山も残されている。
「この辺りでは自然林と山菜を取るための林を分けてるんです。 そうじゃないとお互いにびっくりしますから。」
女将もそう話していた。
さてさて9時を過ぎると厨房の女が二つの弁当を抱えてきた。 「出来ましたのでここに置いておきますね。」
初老の女は寛子を見ると寂しそうに笑った。 「あんたもやっといい人を見付けたんだねえ。」
「いい人?」 「そうだ。 この人ならあんたを守ってくれる。 他の女中たちには何の気兼ねも要らないから幸せになりなさい。」
女はそう言うと部屋を出ていった。 「あの人は女将の古くからの親友なんです。 ずっとこの旅館で働いてる人ですよ。」
「そっか。 あの人には分かってるんだな。」 「何が?」
純一郎が話を続けようとしていたところに女中が水筒を持ってきた。 「お茶も入れておきましたのでゆっくりお出かけくださいね。」
大きな水稲だ。 それにコップが二つ付いている。 「たぶん、女将が沸かしてくれたんですね。」
「さあ行こうか。」 玄関まで来ると数人の女中が立ち話をしている。 「ほらほら、邪魔ですよ。 どいてあげなさい。」
美織が少し厳しい口調で女中たちを叱り付ける。 「ごゆっくりどうぞ。」
玄関を出た純一郎と寛子は砂利道を歩いていく。 昨日、登ってきた道を横切って坂道を上る。
時々鳥たちが歌いながら飛んでいく。 空は遥かに高く遠くに白い雲が浮かんでいる。
近くには八幡平が聳えている。 その向こうにも山が続いている。
耳を澄ますと小川が流れている。 夜に聞いていたあの流れだ。
30分ほど歩くと分かれ道が見えてきた。 「こちらです。」
寛子が左側の道へ入っていく。 「こっちは何処へ行くんだい?」
「養鶏場です。 女将がいつも卵を貰ってくる養鶏場です。 牛も飼ってるらしいんですけど、、、。」
確かに牛の鳴き声が聞こえる. ついでに鶏の鳴き声も、、、。
それにしても長閑な町である。 都会暮らしの純一郎には物足りない気さえする。
さらにここから坂を上っていく。 小高い丘の上にまで上がるらしい。
夏の太陽は山際の道を明るく照らしてくれているが兎にも角にも暑くなってきたようだ。 「暑いねえ。」
「もうすぐ木陰が有りますからそこで一休みしましょう。」 肩まで伸ばした髪が揺れている。
後ろから寛子を見ていると何となく懐かしくさえ思えてくる。 「女将とあなたのお父さんの子供なんですよ。」
美織が耳打ちしていたあの言葉を思い出す。 ということは親父はあの女将を抱いていたってことなのか?
海外からの帰り道、親父は一週間ほど休みを取ることが多かった。 疲れるんだからしょうがないなと思っていた。
でもあの女将に会うためだったのか? しかしそれを女将に聞きたいとは思わない。
今夏、初めてこの旅館を訪れたわけだし、それにもまして女を抱くためにここに来たわけではないのだから。
「一休みしましょう。」 考え事をしていると寛子の声が聞こえた。
見るとベンチが置いてある。 その上にはイチョウやブナなどが屋根を作っているらしい。
寛子がお茶を入れてくれた。 それを飲みながら崖下に目をやると、、、。
「あれって露天風呂だよね?」 「そうです。 ここまで来ると旅館のお風呂がよく見えます。」
「盗撮ポイントだね。」 「ですから昼間はお風呂には入らないように注意されてます。」
「でもさあ3時過ぎにも居たよね?」 「居ますねえ。 夕方に帰るお客さんも居るので、、、。」
「帰る前のひと風呂か、、、。」 純一郎はもう一度露天風呂を見下ろした。
よく見るとそれぞれに微妙に違った作りになっている。 木戸は同じなのに、、、。
「天然の石を拾ってきて組み合わせてるそうなんです。 石ってみんな表情が違うんですね。」 「そうだろうなあ。 合わせるだけでも大変だ。 よく作ったなあ。」
「先代の女将が日本庭園にこだわっていて露天風呂も何年も掛かって作ったんだそうです。」 「日本庭園か。 庭もなかなかなもんだよねえ。」
二人が見下ろしていると美織がそれに気付いたらしく手を振ってきた。 「美織さんも長く働いてる人です。」
「そうなんだね。 ここって男の職員は居ないのかい?」 「昔は居たそうなんですけど女中に手を出しちゃって辞めさせられたって言ってました。」
「女中は旅館の商品だからなあ。 手を出したら終わりだよ。」 「でも女中のほうから近付いたんだそうです。」
「え?」 「お金をくれたら抱かせてあげるわよって。」
「それは無いなあ。 いくら花宿だからって、、、。」 「そう思います。 見境が付かなくなってくるんですね。 悍ましいです。」
「寛子ちゃんはどうしてこれまで女中にはならなかったの?」 「私にも分かりません。 ただ女将が「あなたは大事な人だから。」って言ってずっと厨房に置いてくれたんです。」
「大事な人、、、、、、、、か。」 純一郎はふと思った。
(親父と女将の子だったら何か有るな。) 「さあ行きましょうか。」
そこからさらに30分ほど歩いて急な坂道にやってきた。 「この上です。」
「この坂は急だなあ。 滑るんじゃないよ。」 「私もいつも緊張するんですよ ここは。」
少々薄暗くトンネルのようになった細い坂道である。 そこを上りきると開けた場所に出てきた。
「こんな所が有ったのか。 すごいなあ。」 「ここも女将が計画して作ってもらったんだそうです。」
草スキーでも出来そうな広場が有る。 そして芝生には白いベンチが、、、。
「へえ、トイレまで在るのか。 考えたもんだなあ。」 ベンチに腰を下ろすと純一郎は思い切り背伸びをした。
ここはちょうど旅館の裏手に当たる丘の真ん中である。 八幡平も含めて山々が重なっている。
その下のほうに田沢湖線が通っていて今日もコマチが爆走しているのだろう。 疾走する姿は圧巻である。
そのコマチに乗ってここまでやってきた。 今までなら東京のホテルで体を休めてそのまま会社に向かっていたのに、、、。
「ねえねえ、寛子が付いたあの人さあ、ロスに行ってたって言ってたわよね?」 「どうせ偽ブランドの買い物でもしてきたんでしょう?」
「女将に聞いたらさあ商社の社長さんなんだって。」 「え? 商社の?」
「そうなの。 それで台所用品とかの商談をしてきたんだってよ。」 「ふーん。 だから何?」
「いいじゃない。 気が向いたら集ってやればいいんだから。」 そんな話し声が聞こえてくる。
庭のほうでは女将が盆栽の手入れをしている。 ずっと動き回っている。
「女将は休まないのかなあ?」 「起きてる間はああしてずっと動き回ってます。 食事の時だけですね 休むのは。」
「そっか。 それにしても女中たちは悪過ぎるなあ。」 「そこがちょっと、、、。」
寛子も顔を曇らせてしまった。 と、そこへあの女がやってきた。
「お客様、今日はどうされますか?」 「って言っても予定は無いよ。」
「あらあら、もったいないですねえ。 こんなに天気もいいのに。」 「お散歩なんてどうですか?」
「お散歩?」 「そうねえ。 八幡平も見えるしいいんじゃないかしら?」
「八幡平か。 いいね。」 「ではお弁当を作るように伝えてきますね。」
寛子が部屋を出ていった時、女が純一郎に耳打ちをした。 「あの子は女将とあなたのお父さんの子です。」
「何だって? ほんとかい?」 「今まで誰にも言わなかったんです。 女将が私にだけ教えてくれました。」
「でもあの子は、、、。」 「寛子ちゃんにはまだ言わないでください。 女将からその時が来たら打ち明けるはずですから。」
「分かった。 けどあなたの名前は、、、?」 「私は安本美織です。 よろしく。」
女が頭を下げて庭に出ていったところに寛子が帰ってきた。
「9時には用意するそうですから9時半くらいに出掛けましょうか。」 「そうだね。」
美織は石灯篭を磨きながら寛子を見守っている。 その目はどこか母親のような、、、。
旅館の中では相変わらず女中たちが走り回っている。 「そんなに走らなくてもいいでしょう?」
「だって走らないと間に合わないんだもん。」 「あなたが寝坊するからいけないのよ。」
「そんなこと言ったって、、、。」 「真夜中まで遊んでたんでしょう? 少しは考えなさい。」
女将も苦しそうな顔で女中たちを見ている。 「何年働いても分からないのね。」
食堂も最後の客が食事を済ませてやっと静かになった。 庭の遠くでは今日も鹿威しの空気を切るような音が静かに聞こえている。
この辺りは滅多に車が走ることも無い。 手付かずの自然がそのままに残されている山里である。
山のほうでは時々熊だって散歩している。 昔ながらの里山も残されている。
「この辺りでは自然林と山菜を取るための林を分けてるんです。 そうじゃないとお互いにびっくりしますから。」
女将もそう話していた。
さてさて9時を過ぎると厨房の女が二つの弁当を抱えてきた。 「出来ましたのでここに置いておきますね。」
初老の女は寛子を見ると寂しそうに笑った。 「あんたもやっといい人を見付けたんだねえ。」
「いい人?」 「そうだ。 この人ならあんたを守ってくれる。 他の女中たちには何の気兼ねも要らないから幸せになりなさい。」
女はそう言うと部屋を出ていった。 「あの人は女将の古くからの親友なんです。 ずっとこの旅館で働いてる人ですよ。」
「そっか。 あの人には分かってるんだな。」 「何が?」
純一郎が話を続けようとしていたところに女中が水筒を持ってきた。 「お茶も入れておきましたのでゆっくりお出かけくださいね。」
大きな水稲だ。 それにコップが二つ付いている。 「たぶん、女将が沸かしてくれたんですね。」
「さあ行こうか。」 玄関まで来ると数人の女中が立ち話をしている。 「ほらほら、邪魔ですよ。 どいてあげなさい。」
美織が少し厳しい口調で女中たちを叱り付ける。 「ごゆっくりどうぞ。」
玄関を出た純一郎と寛子は砂利道を歩いていく。 昨日、登ってきた道を横切って坂道を上る。
時々鳥たちが歌いながら飛んでいく。 空は遥かに高く遠くに白い雲が浮かんでいる。
近くには八幡平が聳えている。 その向こうにも山が続いている。
耳を澄ますと小川が流れている。 夜に聞いていたあの流れだ。
30分ほど歩くと分かれ道が見えてきた。 「こちらです。」
寛子が左側の道へ入っていく。 「こっちは何処へ行くんだい?」
「養鶏場です。 女将がいつも卵を貰ってくる養鶏場です。 牛も飼ってるらしいんですけど、、、。」
確かに牛の鳴き声が聞こえる. ついでに鶏の鳴き声も、、、。
それにしても長閑な町である。 都会暮らしの純一郎には物足りない気さえする。
さらにここから坂を上っていく。 小高い丘の上にまで上がるらしい。
夏の太陽は山際の道を明るく照らしてくれているが兎にも角にも暑くなってきたようだ。 「暑いねえ。」
「もうすぐ木陰が有りますからそこで一休みしましょう。」 肩まで伸ばした髪が揺れている。
後ろから寛子を見ていると何となく懐かしくさえ思えてくる。 「女将とあなたのお父さんの子供なんですよ。」
美織が耳打ちしていたあの言葉を思い出す。 ということは親父はあの女将を抱いていたってことなのか?
海外からの帰り道、親父は一週間ほど休みを取ることが多かった。 疲れるんだからしょうがないなと思っていた。
でもあの女将に会うためだったのか? しかしそれを女将に聞きたいとは思わない。
今夏、初めてこの旅館を訪れたわけだし、それにもまして女を抱くためにここに来たわけではないのだから。
「一休みしましょう。」 考え事をしていると寛子の声が聞こえた。
見るとベンチが置いてある。 その上にはイチョウやブナなどが屋根を作っているらしい。
寛子がお茶を入れてくれた。 それを飲みながら崖下に目をやると、、、。
「あれって露天風呂だよね?」 「そうです。 ここまで来ると旅館のお風呂がよく見えます。」
「盗撮ポイントだね。」 「ですから昼間はお風呂には入らないように注意されてます。」
「でもさあ3時過ぎにも居たよね?」 「居ますねえ。 夕方に帰るお客さんも居るので、、、。」
「帰る前のひと風呂か、、、。」 純一郎はもう一度露天風呂を見下ろした。
よく見るとそれぞれに微妙に違った作りになっている。 木戸は同じなのに、、、。
「天然の石を拾ってきて組み合わせてるそうなんです。 石ってみんな表情が違うんですね。」 「そうだろうなあ。 合わせるだけでも大変だ。 よく作ったなあ。」
「先代の女将が日本庭園にこだわっていて露天風呂も何年も掛かって作ったんだそうです。」 「日本庭園か。 庭もなかなかなもんだよねえ。」
二人が見下ろしていると美織がそれに気付いたらしく手を振ってきた。 「美織さんも長く働いてる人です。」
「そうなんだね。 ここって男の職員は居ないのかい?」 「昔は居たそうなんですけど女中に手を出しちゃって辞めさせられたって言ってました。」
「女中は旅館の商品だからなあ。 手を出したら終わりだよ。」 「でも女中のほうから近付いたんだそうです。」
「え?」 「お金をくれたら抱かせてあげるわよって。」
「それは無いなあ。 いくら花宿だからって、、、。」 「そう思います。 見境が付かなくなってくるんですね。 悍ましいです。」
「寛子ちゃんはどうしてこれまで女中にはならなかったの?」 「私にも分かりません。 ただ女将が「あなたは大事な人だから。」って言ってずっと厨房に置いてくれたんです。」
「大事な人、、、、、、、、か。」 純一郎はふと思った。
(親父と女将の子だったら何か有るな。) 「さあ行きましょうか。」
そこからさらに30分ほど歩いて急な坂道にやってきた。 「この上です。」
「この坂は急だなあ。 滑るんじゃないよ。」 「私もいつも緊張するんですよ ここは。」
少々薄暗くトンネルのようになった細い坂道である。 そこを上りきると開けた場所に出てきた。
「こんな所が有ったのか。 すごいなあ。」 「ここも女将が計画して作ってもらったんだそうです。」
草スキーでも出来そうな広場が有る。 そして芝生には白いベンチが、、、。
「へえ、トイレまで在るのか。 考えたもんだなあ。」 ベンチに腰を下ろすと純一郎は思い切り背伸びをした。
ここはちょうど旅館の裏手に当たる丘の真ん中である。 八幡平も含めて山々が重なっている。
その下のほうに田沢湖線が通っていて今日もコマチが爆走しているのだろう。 疾走する姿は圧巻である。
そのコマチに乗ってここまでやってきた。 今までなら東京のホテルで体を休めてそのまま会社に向かっていたのに、、、。