〜Midnight Eden〜 episode4.【月影】
 母の笑顔を曇らせていたのはいつも父だ。泣きながら庭の花を世話する紫音の小さな背中に抱き付く幼い伶の丸い頬には、父に平手で叩かれた赤い跡がくっきり残っている。

ごめんね、ごめんねと、紫音は何度も伶に謝っていた。虐待を受ける伶を守るために紫音が殴られ、彼女の身体はアザだらけだった。

紫苑は優しい思い出と苦い記憶が混雑する追想の花。

「舞のママは京香ママだからなぁ。お兄ちゃんは京香ママあんまり好きじゃないよね」
『そんなことないよ』
「京香ママの話するといっつも怖い顔してる。今も怖い顔になってますぅ」

 無意識に強張っていた口元にチキンナゲットを押し込まれた。伶が半分かじったナゲットは舞の口に消える。

『舞は口にケチャップがついてます』
「んー、ねぇ、お兄ちゃん拭いてぇ」
『しょうがないな』

 舞の唇や口の端についたケチャップをウェットティッシュで丁寧に拭ってやる。冬には十六歳になる舞は、伶と愁の前では甘えん坊だ。

愁の前では女の顔で甘える舞も伶の前では子どもの顔で甘えていた。伶に口を拭いてもらう間、舞はキスでも待っているみたいに目を閉じてじっとしている。

『……舞』
「なに?」
『舞のファーストキスの相手、実は俺なんだけど覚えてる?』
「ええっ?」

 ぱちっと目を見開いた舞はケチャップが拭われた赤い唇に触れた。ソファーに並んで座る舞のふわふわの髪が伶の指に絡み付く。

「ウソウソ嘘! 嘘だよね?」
『本当。舞が五歳の時かな。お兄ちゃんにおやすみなさいのちゅーしてあげるって言って、俺の口にキスしてくれたよ』

赤くなったり青くなったり、顔色を変えて狼狽える妹の様子がおかしくて笑えてくる。

「舞のファーストキスはお兄ちゃん……なの?」
『あからさまにガッカリされるとお兄ちゃんは悲しい』
「ごめんね……。うーん、だけどあの頃のお兄ちゃんはめちゃくちゃかっこよかったから……。もちろん今もかっこいいよ!」

 舞は伶の膝の上にぴょんと飛び乗った。向かい合わせに抱き付いて首もとにすり寄る舞の長い髪を、伶の大きな手が優しく往復する。

 伶と舞は大学生の兄と高校生の妹にしては距離感が近い。幼い頃に血の繋がりのある家族が伶だけとなった舞にとって、伶は兄でもあり、母親であり父親でもある。
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