そのモラハラ彼氏、いらないでしょ? ~エリート御曹司の略奪愛
 少し怒ったような陣の顔を見て、七瀬は目を丸くしてから口許だけで微笑んだ。
 まるで七瀬の代わりに怒ってくれてるみたいだし、いつもちゃんと他人行儀に『僕』と言っている陣が、さりげなく『俺』と一人称を言い換えたから。きっと普段はそう言っているのだろう。

 そして直後に、陣の素の顔を垣間見てうれしくなっている自分に、内心で自省する。

 恋人がありながら、酔った挙句に『生徒』という立場の男性の自宅に転がり込むなんて、とても宗吾を責められたものではない。

「とにかく、彼とはちゃんと話をしてみます。一宿一飯のご恩はいずれお返しします。あ、シーツなんかは洗濯を……」
「ああ、いいですよそんなの」
「ではお皿を……」
「食洗器が勝手に洗うので、そのままで。そんな気を使わないでください、僕は七瀬センセーのレッスンをタダで受講したので、貸し借りなしです。それに、あの部屋にはよく兄が泊まりに来るので、ハウスキーパーさんに定期的に掃除洗濯してもらってるんですよ.」

 ハウスキーパー。この時点でいろいろ普通ではない。とはいえ、こんな広大な家に住んでいる時点で、とっくに陣は普通の人ではなかった。
 高層階の窓から見える景色は、青山の街並みだ。青山でこんな広いマンションに、おそらく一人暮らし。どうなっているのだろう。

 宗吾も実家が松濤にあって、父親は銀行の支店長という話を聞いたことがある。
 そういう背景があるからこそ、宗吾も若くして恵比寿のマンションで悠々自適の暮らしをしているのだろうが、それとも明らかに規模が違った。

 動揺をなだめるために、深く呼吸して合掌しながら「ごちそうさま」をして、席を立つ。

「このたびは、大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今日はいろいろ動揺しているので、落ち着いてから改めてお礼をさせていただきますね」
「僕は全然いいんですけど、センセー、大丈夫ですか?」

 その一言には様々な意味が込められていそうだったが、七瀬は笑った。

「はい。今日は新宿スタジオで瞑想(メディテーション)のクラスがあるので、そこで自分の内面を見つめ直してきます」
「あまり無理なさらず。何かあったら、話を聞くくらいなら、いつでもお付き合いしますから」
「陣さんにはもう二度も助けていただきました。感謝しかありません」

 成り行きとはいえ、生徒に触れられたくないプライベートをさんざん見せてしまった。インストラクターとして、自分の行いを反省しなくてはならないところだ。

 二人分の食器を食洗器に入れるところまではやらせてもらい、玄関に向かう。

「少し待っててくだされば、送っていきますよ」
「や、ほんとに大丈夫なので。ここ、青山ですよね?」
「ええ。道は分かると思いますが、じゃあ気を付けて。また火曜日に」
「ありがとうございます。では、失礼いたします――」

 半ば逃げ帰るように陣の家を後にした。
 エレベーターを見つけて乗ったら、ここは最上階の十五階。一階まで下りてマンションを出たら、『Vintage Voltage』の看板が目に飛び込んできた。

「えっ、陣さんの家、カフェバーの、上……?」

 陣の兄が経営するカフェバーが入っている建物だったのだ。

「ほんと、陣さんって何者なの……?」

 昨日から心をざわつかせる事件が盛りだくさんだが、最後の最後で止めを刺された気分だ。
 ここから青山一丁目駅は目と鼻の先。
 よく知る街を急ぎ足で通り過ぎ、なんとか日常に立ち戻ろうと、七瀬は深呼吸……深いため息をついた。
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