そのモラハラ彼氏、いらないでしょ? ~エリート御曹司の略奪愛

第30話 大家さん(本物)

 早朝クラス開催のため、七瀬は一足先に陣の部屋を出た。
 七時にスタジオに入るのだが、ここから七瀬の早足で行けば二十分もかからない。いいウォームアップにもなるだろう。

 今まで使っていたヨガマットは傷だらけになっていたし、見るのがつらいので恵比寿のマンションに置いてきてしまった。紛失してからこっち、陣の私物を借りている。
 今日、彼と一緒にスポーツ用品店に行くから、新調するのもいいかもしれない。

(陣さんと同棲――)

 今になっても実感が湧かない。
 だが、彼の傍にいるのはとても心地いいし、たった一晩でそれが身に染みていた。
 陣は信頼できる人だ。
 もちろん、宗吾と付き合い始めた頃もそう思っていたはずだが、彼にはなかった、揺るぎない安心感を陣は持っている。

 宗吾からは、何を提案しても否定的だったり拒絶されたり、むしろ非難されることが多かった。とくにこの一年はそれが顕著で、いつの間にか七瀬自身も宗吾に何かを期待することがなくなっていたように思う。
 それどころか、宗吾が機嫌を悪くしないように先回りし、顔色を窺い、かなり神経を尖らせながら過ごしていたのだ。

 でも陣は、一緒に走りたいと言ってくれたし、買い物やランチなど提案してくれた。なにより、時間が合わなくても、嫌な顔をしなかった。
 現在の七瀬にとって、陣のその反応は新鮮だったし、感動的ですらあったのだ。
 昨晩も、いつになく塞ぎこんでしまった七瀬を、一晩中抱きしめてくれていて、そのあたたかくて広い胸に身を預ける心地よさを、七瀬は知ってしまった。

 実を言うと、同じベッドで寝ることになったとき、そういうこと(・・・・・・)が起きるのかな――と、不安とも期待ともつかない気持ちを抱いていた。
 もし抱き合うことになったらそれはそれでも構わないと、そのときは考えていたものの、一晩明けて、結果的に何もなくてよかったと心から思った。
 だって、あんな暴力的な家の惨状を見た後で、暗く沈んだまま刹那的に陣に身を任せるのでは彼に失礼だ。

 陣とは、なるべくプラスの記憶を多く共有していきたい。この縁を大事にしていきたいし、彼への感情を大切に育てていきたいから。
 きっと彼も、同種のことを考えているのだろうと、自然と思えた。

(これでもし、陣さんまで宗吾さんと同じような気質の持ち主だったら、もう今後二度と男性には近づかないように生きていくかな……)

 関係に主従ができてしまうような間柄は、生きていくのがつらいから。
 エントランスから外に出て、ふふっと笑う。陣にはその懸念はないだろうと思える安堵の笑みだ。
 当然、根拠はないけれど。

 さっき、陣から家の合鍵をもらったので、出入りが自由になった。もちろんマンションはオートロックだ。

(こんなことって、世の中にある……?)

 下から見上げて、ため息をついた。古い言い草にはなるが、間違いなく億ションである。
 マンションを出ると、すぐ『Vintage Voltage』の看板が目に付くので、いつも七瀬の視線はそこをたどってしまうのだが、今日から本当にここに住むのだと思ったら周囲の景色も気になって、きょろきょろと辺りを見回した。

 マンションの規模はそんなに大きくはなく、一階にエントランスと潤のカフェバーが入り、二階から上が居住のための分譲マンションとなっている。
 各フロア二戸で、最上階の陣の家だけが、ワンフロア一戸という贅沢な造りだ。外観も今風で、洗練されたスタイリッシュさがある。

 ふと、マンション入り口のビルサインが目に入った。
 これまでも目には入っていたはずなのに、英字表記のせいか目が滑って、よく読んではいなかったのだ。
 しかし、改めてよく見てみれば、『MIKADO GRAND RESIDENCE AOYAMA』と刻まれている。

「みかどぐらんどれじでんすあおやま――ええと、三門グランドレジデンス青山……?」

 声に出して読んでみた日本語。
 深く考えないことにした。本物の大家さんだった。
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