そのモラハラ彼氏、いらないでしょ? ~エリート御曹司の略奪愛
 恐々振り返ると、ひどく顔色の悪い宗吾がじっと七瀬を見つめていた。
 つい最近まで恋人と呼んでいた人なのに、声を聞くだけで、姿を見るだけで恐怖心が湧き上がってくる。

 しかし、宗吾は七瀬のあげたチェスターコートの下にデニムパンツというラフな格好をしていたので、違和感を抱いた。まだ火曜で、今日も出勤だろうに。

「彼氏が大変なときに、よその男にうつつを抜かしてる奴がいるか! 帰るぞ」

 宗吾に手首をつかまれ、ほとんど強引に連れ去られる。

「そ、宗吾さん! 私はもう、お別れしたいって……」
「俺は承知してない! 勝手に決めるなよ、二人のことなのに、無関係な男を間に入れて引っかき回して」

 肩越しに振り返る宗吾の落ちくぼんだ目が、とても怖かった。往来でもこんな剣幕なのに、家で二人きりになったらどれほどの怒声を浴びせられるのだろう。

「宗吾さん! 私はもう、無理です。怒鳴られるのも、目の前で暴力を見せつけられるのも――」
「おまえが自分勝手なことばかりするからだろ! 俺を怒らせてるのは七瀬じゃないか!」

「じゃあ、大楠沙梨さんのことはどう説明してくれるんですか!?」

 その名を出した瞬間、宗吾は険しい顔で七瀬をにらみつけてくる。でも、怯むわけにはいかない。このままずるずると彼の言いなりになりたくないから。

「本当に、もう無理なんです。お願い……」

 彼の目を見て、気持ちを訴える。すると、七瀬の手首をつかんでいた宗吾がそれを振り払い、七瀬の身体を後方に突き飛ばした。

「あ……」

 勢いよく突き飛ばされ、バランスを崩した七瀬の体が背中から地面に倒れていく。
 でも、その背中を受け止めてくれる人がいた。力強い腕の中に七瀬を抱き留め、大事そうに背中から抱きしめてくれる。
 七瀬を包み込んでくれる広い胸の持ち主は、もちろん一人しかいない。

「陣さん……」

 彼は七瀬の肩に手を置くと、無言で背中にかばい、自分が宗吾の前に立ちはだかった。
 向かいの喫茶店から七瀬が宗吾と揉めているのを見て、走ってきてくれたのだろう。息を弾ませながらも、きっぱり宗吾と対決姿勢をとった。

「言ったよな、七瀬は帰さない。あんたみたいな自分勝手で危険な輩に、大事な人を戻す気はさらさらない。しつこいと、つきまといで通報するが」

 七瀬からは陣の背中しか見えていないが、宗吾の顔は蒼白になっていく。陣は決して声を荒らげてはいないのに、その口調には逆らえない重みがあった。
 これが専務取締役という役職者の威厳なのだろうか。
 
 道行く人々も、このちょっとした騒ぎに注目しながら通り過ぎるので、宗吾もバツが悪くなったのだろう。口の中でボソボソと何かを言うと、踵を返して立ち去ってしまった。

「自分より弱そうな相手には強気なのに、相手が上だと思うと、手も足も出せないみたいだね」

 陣の口が達者なのは昨晩のことでわかっているだろうし、身長も陣のほうが高く、体つきもたくましいから、宗吾は自然と陣を自分より強い相手、と認識しているだろう。

 その様子を陣の背中に隠れて見ていた七瀬は、彼の腕をつかんで額を寄せた。ほっとして肩の力が抜けてしまったのだ。

「陣さん、ありがとうございました」
「七瀬さんのスケジュールはネットで公開されてるから、待ち伏せは容易なのに、その可能性を考慮してなかった。ごめん」

 ヨガスタジオのサイトで講師名から検索すれば、七瀬が受け持っているコマは簡単に調べることができる。
 もっとも、宗吾は大手企業勤めなので、平日の日中に現れるなんて思いもしなかった。

「陣さんのせいなんかじゃないですよ。元はと言えば、私の問題ですし。でも……」

 宗吾がどんなつもりで七瀬の前に現れるかわからない。何を言っても話をすり替えられてしまい、まともな話し合いにならない。

「この先、どうすればいいんでしょう……」
「早めに決着をつけないとね。ここまでは七瀬さんががんばったから、次は俺のターンだ。任せておいて。彼、墓穴を掘ってるから、あとは俺がきちんと埋めとくよ」

 そう言って人の悪い笑みを浮かべる陣に、七瀬は目を丸くした。
< 89 / 102 >

この作品をシェア

pagetop