それらすべてが愛になる
 「工藤清流さんですか?」

 その問いかけに、この人は道を尋ねるために声をかけたのではないのだと分かって、反射的に身構える。

 そしてこの目の前の人物が、自分が『つけられている』と感じていた正体なのだと瞬時に頭の中で繋がった。

 少なくとも清流には見覚えがなく、顔見知りではない。
 それなのにどうして自分のことを知っているのか、そしてなぜ声をかけたのか。

 「……どちら様ですか?」

 聞く耳を持たない方がいいという警戒感と、どうしても無視できない強い何かとが交錯して、清流は立ち尽くすように相手を見つめるしかなかった。

 「この辺りは本当に良い街ですねえ。街は綺麗だし緑もあるし、私の地元は下町の方なんで雰囲気が全然違うっていうか。あ、でも有名な商店街があるところなんですけどね」

 明るくフランクながらも意図して核心をずらされているような話し方に、この人は苦手だと本能的に感じる。
 距離を詰められたわけでもないのに追い詰められている気分になって、思わず一歩後ずさった。

 「あぁすみません、警戒させるつもりじゃなかったんですよ。ほら、本題に入る前の軽いアイスブレイクっていうやつで。私はこういう者です」

 そう言って差し出された名刺には『フリーライター 氏原崇史(うじはらたかし)』と書かれていた。

 (フリーライター…?)

 そんな職業の人間がなぜ声をかけてきたのだろう。
 以前、洸はときどき取材を受けるという話を聞いたことがあるが、それなら会社を通すはずでどう考えてもおかしい。

 「ちょっとお話しいいですか?道端というのが何でしたらどこか入っても構わないんですけど」

 「…いえ、お話しすることは何もないですので、失礼します」

 「あぁちょっと待って、工藤さん!」

 足早にその場を立ち去ろうとして、今度は強めに呼び止められる。

 「お話と言いますかね、工藤さんに見ていただきたいものがあるんです」

 そう言って、氏原は清流の前に来ると行く手を塞いだ。
 ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべているが、その強引さと得体の知れなさに足がすくむ。


 氏原は満足そうに笑みを深くして、手提げ鞄の中から取り出した右綴じの原稿を、清流の前に差し出した。


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