まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中

11 ふたりぶんの決意

 由良の抵抗はある程度尚史は想像していたようだが、彼は昔から強引だった。
「一週間後の日曜日。着物も店も用意してある。社員寮まで車で迎えに行くから、お前は俺についてくるだけでいい」
 子どもの頃から「俺について来い」の人で、由良には年の差も体の弱さもあったものだから、尚史が本気になったら敵わないところがあった。
 そうは言っても、結婚は人生を左右する。由良は相手も知らないのに結婚なんて無理だと必死で抵抗したし、最後の方は延期してもらうだけでもと食い下がったけれど、尚史は一歩も引かなかった。
 尚史は自分の出世や家柄には興味がない人だから、由良のためを思って言ってくれているのはわかっていた。だからよほどその相手のことを気に入っているのだろうけれど、その前提で由良の仕事をやめさせようというのは納得いかなかった。
 土曜日、お見合いが明日に迫る夜のことだった。由良は社員寮から出て駅の中のコーヒーショップに来ると、窓際の席でため息をついて座っていた。
 コンコン、と窓が叩かれて顔を上げると、そこに北条の姿をみつけた。驚いている由良の前で、北条は店の中に入ってくる。
「隣、座ってもいいですか?」 
「は、はい」
 由良が慌ててバッグを退けると、北条は微笑んで、ちょっと待ってください、と言った。
 北条は私服姿で、仕事帰りという感じでもなかった。医務室のように先生と患者として向き合うのではない状況で、由良は少しどぎまぎした。
 北条はコーヒーを一杯注文して戻ってくると、由良の隣に座って告げた。
「こんな夜更けにどうしたんですか? なんだか浮かない表情ですね」
 由良はそれを聞いて苦い顔をすると、うなずいて返す。
「先生には何でもわかってしまうんですね。……明日のことが憂鬱で」
「よかったら話してみませんか。由良さんの気が楽になるなら」
 由良が見上げれば、北条の包み込むようなまなざしと目が合った。仕事から離れた北条はパンダのタグのついたトレーナーとジーンズ姿で、おっとりとした雰囲気だった。
 でもその目はいつ見ても優しい。由良は甘え心のような気持ちを持て余しながら、悩みを打ち明けた。
「明日、お見合いをすることになっていて」
 由良の言葉に、北条はさすがに驚いた顔を見せた。お見合い、とつぶやいて、難しい顔になる。
「ご結婚を前提に、ですよね。由良さんは相手の方を知っているんですか?」
「結局今日まで訊けなかったんです。訊いたら、兄に乗り気だと思われそうで」
 由良はうつむいて、尚史に何度も言った言葉をつぶやく。
「兄には、「私は今の仕事を続けていきたい。結婚して仕事をやめるつもりはない」って言ったんですけど」
 由良はそこで口をへの字にして、本音の部分をこぼす。
「それに……北条先生が好き、ですし……」
 兄にはまだ北条のことは伝えていなかった。北条が、付き合っているわけではない由良に相手だと紹介されたら迷惑だろうと思ったからだった。
 北条は由良の言葉を聞いて、頬をほころばせて笑う。
「安心しました。由良さんの心に僕があるのなら、よかった」
 北条はそう言ってから、由良にたずねた。
「でもお見合いが断れない理由もあるんですね?」
 由良は先生の目は本当によく見えるのだと改めて思いながら、こくりとうなずく。
「一年くらい前……私、交通事故に遭って、兄の勤める病院に救急搬送されたんです」
 もう夜も八時を回る頃なのに、駅はまだ人が絶えない。窓越しに流れていく人波を見送りながら、由良はぽつぽつと話す。
「兄は外科医ですけど、そのときは目の前が真っ暗になったと言います。私たちは早くに両親を亡くして、兄は年が離れていたから、兄はずっと自分が私を守らなきゃって気負っていました。……でもそのとき、兄は手が震えて、とても手術はできなかった」
 由良はくしゃりと顔を歪めて、そのときに思いを馳せる。
「目が覚めたとき、兄が泣くのを初めて見ました。ドクターでも身内の手術が出来ないなんてよくあることだって、私も周りも言いましたけど、兄は……」
 由良はコーヒーカップを置いて、深く息をついた。
「……それからです。兄が、付き合っている男はいるか、仕事はつらくないかって、過剰なくらい干渉してくるようになったのは。自分の代わりに私を守れる人を、探し始めたのは。……私は大丈夫だって、何度も言ったのに」
「由良さんは、お兄さんのことが大事なんですね」
 そっと言葉を返した北条に、由良は泣きそうな目で見つめ返す。
「私がちゃんと一人で立たないと、兄は私の未来を探し続けてしまいます。だから……一度は私自身がお見合いの場に立って、断らないといけないと思うんです」
 北条は困ったように笑って、由良の目を見返しながら言った。
「敵いませんね、由良さんのまじめさというか、思いの強さには。時々は周りに丸投げしてもいいと思うのに」
「そんな! だめですよ、私の問題なんですから」
「僕にもかかわる問題です」
 北条はふいに声を低めて、由良の目をのぞきこむようにして告げた。
「……僕も今、決めました」
「え?」
 由良が問い返すと、北条もまた強い意思をこめた口調で言う。
「由良さんが決めたなら、お見合いの邪魔はしません。でも由良さんは僕のことを好きだと言ってくれた。その嬉しさを原動力に、しようと思っていることがあります」
 北条はいつか名刺を差し出したときのように、にっこりと笑ってみせる。
「覚悟しておいてくださいね?」
 それは街明かりが揺れる夜のこと、お見合いの前日の夜のことだった。
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