まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中
15 いくつかの初めて
週明け、由良は「恋人がいるからこの縁談は断りたい」と電話で尚史に伝えた。
けれど尚史が驚いたのは最初だけで、彼はすぐさま声を険しくして言い返した。
「上川はお前の未来のために選んだ相手だ。一時的な恋人よりずっといいはずだ」
「一時的じゃないの。これから長い時間を一緒に過ごそうって約束した」
「上川が相手で不足か?」
尚史は剣呑な調子で由良に畳みかけてくる。
「あいつはお前を養うだけの資産と心根を持ち合わせてる。お前は弱いんだ。誰かが庇ってやらないと生きていけない。それを自覚して、庇護の中に入るんだ」
「そんなことない。私は十年間働いてきたんだよ。お兄ちゃんは今も私が子どもだと思ってる」
「お前は俺から離れようと躍起になってるだろ」
由良は兄が強引に話を進めてくるのは承知していた。それを断れずに一度は受けてしまったのを後悔している。
尚史は横暴でありながら、どこか切ない声音で続ける。
「いいさ、お前にやっかまれても構わない。たとえお前の一時の感情が受け入れなくても、俺はお前の最良を選んでみせる。……今の恋人とは別れて、縁談を受けろ」
「お兄ちゃん!」
由良が怒るより悲しい気持ちで、電話を持つ手を震わせたときだった。
「失礼します。由良さんのお兄さんですね?」
由良の手から携帯電話を取って、勇人が電話の向こうに声をかけた。
「僕は北条勇人といいます。由良さんの恋人です。ごあいさつが遅くなって申し訳ありません」
勇人の声は落ち着いていたが、由良には電話の向こうの尚史が失礼なことを言わないかはらはらしていた。今までの調子だと、理不尽に勇人を罵ると思ったからだった。
「由良さんの体が弱いのは承知しています。必要なら由良さんを養う準備もあります。……ただ、僕は由良さんの十年間の努力を尊重したいですし、由良さんのお兄さんを思う気持ちも大事にしたい」
部屋には、勇人が静かに尚史に話す声だけが聞こえていた。その真摯な声音に多少思うところがあったのか、尚史が黙る気配がした。
勇人は電話の向こうに伝わるように、最大限の礼儀を払って言った。
「一度ごあいさつに伺わせてください。上川君は事前にお会いしたそうですから、僕も同じ機会をいただきたいのです。……お願いします」
「お兄ちゃん、私からもお願い」
由良も勇人の隣から、尚史に話しかける。
「お兄ちゃんと喧嘩別れなんてしたくないよ。……家族になる人なんだから、何度も話して、お互いのことをよく知っていこうよ。そのために私が出来ることなら何でもしていくつもりなの」
電話口の向こうで、尚史が低くうめく気配がした。
尚史がこれだけの時間で、簡単に納得したとは思えなかった。けれど短く、由良と勇人が尚史の家を訪問する日取りを決めて、尚史の方から通話を切った。
由良はどうにか肩をなでおろしたものの、心配そうに勇人にたずねる。
「兄が失礼なことを言いませんでしたか?」
「いいえ。……妹思いの、優しい方なんだと思いました」
そう言った勇人は何か考えに沈んでいるようで、少し沈黙が流れた。
由良は首を傾けて、そっと問いかける。
「勇人さん? どうされたんですか?」
勇人は考えから覚めるようにまばたきをすると、由良に優しい微笑みを向ける。
「それより、家族になる人と言ってくれましたね」
由良は慌てて、わたわたしながら言葉を返す。
「ごめんなさい、先走ってしまって! も、もちろんまだいろんな事が山積みだってわかってます。まずあいさつをして、それから……」
そんな由良と勇人の間が、ふっと近くなった。
由良の唇に、不意の温かい感触。由良は何が起こったのかわからなくて、触れていった先をつと指で追ってしまった。
勇人は由良の指先に、今しがたのことを証明するように唇で触れる。それから上目遣いで由良に問いかけた。
「それから?」
由良は真っ赤になりながら、下を向いて言った。
「……いじわるしないでください、勇人さん」
勇人はくすっと笑って、由良の背中を腕で包み込んだ。
その日は勇人の部屋で二人きり、いろんな初めての出来事が重なった日だった。
けれど尚史が驚いたのは最初だけで、彼はすぐさま声を険しくして言い返した。
「上川はお前の未来のために選んだ相手だ。一時的な恋人よりずっといいはずだ」
「一時的じゃないの。これから長い時間を一緒に過ごそうって約束した」
「上川が相手で不足か?」
尚史は剣呑な調子で由良に畳みかけてくる。
「あいつはお前を養うだけの資産と心根を持ち合わせてる。お前は弱いんだ。誰かが庇ってやらないと生きていけない。それを自覚して、庇護の中に入るんだ」
「そんなことない。私は十年間働いてきたんだよ。お兄ちゃんは今も私が子どもだと思ってる」
「お前は俺から離れようと躍起になってるだろ」
由良は兄が強引に話を進めてくるのは承知していた。それを断れずに一度は受けてしまったのを後悔している。
尚史は横暴でありながら、どこか切ない声音で続ける。
「いいさ、お前にやっかまれても構わない。たとえお前の一時の感情が受け入れなくても、俺はお前の最良を選んでみせる。……今の恋人とは別れて、縁談を受けろ」
「お兄ちゃん!」
由良が怒るより悲しい気持ちで、電話を持つ手を震わせたときだった。
「失礼します。由良さんのお兄さんですね?」
由良の手から携帯電話を取って、勇人が電話の向こうに声をかけた。
「僕は北条勇人といいます。由良さんの恋人です。ごあいさつが遅くなって申し訳ありません」
勇人の声は落ち着いていたが、由良には電話の向こうの尚史が失礼なことを言わないかはらはらしていた。今までの調子だと、理不尽に勇人を罵ると思ったからだった。
「由良さんの体が弱いのは承知しています。必要なら由良さんを養う準備もあります。……ただ、僕は由良さんの十年間の努力を尊重したいですし、由良さんのお兄さんを思う気持ちも大事にしたい」
部屋には、勇人が静かに尚史に話す声だけが聞こえていた。その真摯な声音に多少思うところがあったのか、尚史が黙る気配がした。
勇人は電話の向こうに伝わるように、最大限の礼儀を払って言った。
「一度ごあいさつに伺わせてください。上川君は事前にお会いしたそうですから、僕も同じ機会をいただきたいのです。……お願いします」
「お兄ちゃん、私からもお願い」
由良も勇人の隣から、尚史に話しかける。
「お兄ちゃんと喧嘩別れなんてしたくないよ。……家族になる人なんだから、何度も話して、お互いのことをよく知っていこうよ。そのために私が出来ることなら何でもしていくつもりなの」
電話口の向こうで、尚史が低くうめく気配がした。
尚史がこれだけの時間で、簡単に納得したとは思えなかった。けれど短く、由良と勇人が尚史の家を訪問する日取りを決めて、尚史の方から通話を切った。
由良はどうにか肩をなでおろしたものの、心配そうに勇人にたずねる。
「兄が失礼なことを言いませんでしたか?」
「いいえ。……妹思いの、優しい方なんだと思いました」
そう言った勇人は何か考えに沈んでいるようで、少し沈黙が流れた。
由良は首を傾けて、そっと問いかける。
「勇人さん? どうされたんですか?」
勇人は考えから覚めるようにまばたきをすると、由良に優しい微笑みを向ける。
「それより、家族になる人と言ってくれましたね」
由良は慌てて、わたわたしながら言葉を返す。
「ごめんなさい、先走ってしまって! も、もちろんまだいろんな事が山積みだってわかってます。まずあいさつをして、それから……」
そんな由良と勇人の間が、ふっと近くなった。
由良の唇に、不意の温かい感触。由良は何が起こったのかわからなくて、触れていった先をつと指で追ってしまった。
勇人は由良の指先に、今しがたのことを証明するように唇で触れる。それから上目遣いで由良に問いかけた。
「それから?」
由良は真っ赤になりながら、下を向いて言った。
「……いじわるしないでください、勇人さん」
勇人はくすっと笑って、由良の背中を腕で包み込んだ。
その日は勇人の部屋で二人きり、いろんな初めての出来事が重なった日だった。