まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中

16 家族との対峙

 尚史の家にあいさつに行く朝、由良は勇人のシャツを見て目を留めた。
「勇人さん、そのシャツ……」
 それは由良が勇人のために、胸のところにクマの刺繍をつけたシャツだった。勇人は他にもたくさんきっちりしたシャツを持っているが、彼は殊更それを気に入って着てくれている。
 勇人は胸のところを愛おしそうに撫でて微笑む。
「これを着ていると一番落ち着くんです。由良さんがくれたお守りみたいなものですから」
「で、でも。私の下手な刺繍なのに」
「僕だったら刺繍はできませんよ。人のお腹は縫えますけど、布は縫えないんです」
 あまり普段は言わない冗談を言ってくれる彼に、由良は緊張しきった自分を和ませてくれていると知る。
 勇人は安心させるように、由良の肩をぽんと叩く。
「行きましょうか」
「……はい」
 由良はうなずいて、勇人の隣を歩き始めた。
 勇人の車に乗って五十分。社員寮から尚史の家は、少しアクセスが悪いところにある。由良は就職するにあたって尚史の家から出るところを選んでいて、たびたび様子を見に行くと主張する尚史を断り続けていた。
 けれど決して喧嘩別れしたいわけではなく、今でも時々は連絡を取り合っている。そういう兄妹の距離感を勇人は察しているようで、由良は一緒にあいさつに行ってくれることに感謝していた。
「こんにちは。初めまして。由良さんの恋人の勇人です」
「……ああ」
 尚史の家に着くと、尚史は不愛想に勇人を迎えた。一拍黙った後、「中で話を聞く」と短く告げる。
 由良と勇人がリビングに入ると、家に義姉や甥の姿はなかった。どうやら尚史は義姉と甥に出かけるようにとでも言ったらしく、お茶も尚史自ら出してきた。
 尚史の家は郊外の一軒家で、休日の昼間は車通りも少なく静かだった。でも一応片づけてあるものの、家族でバーベキューをした跡や、尚史が息子とキャンプに出かけるテントが立てかけてあって、温かな空間だった。
 お兄ちゃん、家族が一番大事なのは変わってないな……。テーブルについて由良が周りを見ながら苦笑していると、尚史が口を開いた。
「先に聞かせてくれ。あなたは何よりまず、妹を守ってくれるか?」
 由良がごくんと息を呑むと、尚史は難しい顔で続ける。
「仕事に出すなんてもってのほかだ。妹は体が弱いくせに、これまでに何度も無茶をして体を壊してきた。もう終わりにしてやりたいんだ」
「お兄ちゃん、子どもの頃とは違うよ。私は自分で体調管理できる」
 由良はすぐに言い返したが、尚史は険しい目を勇人に向ける。
「少し調べさせてもらった。あなたはドクターと取締役を兼ねていて大変忙しいようだ。妹を養う資力は持っていると見受けられるが、妹を仕事に巻き込まないでくれるか?」
「なっ……失礼だよ! お兄ちゃん」
 素性を調べるのも、収入のことを表立って口にするのも、恥ずべきことだ。由良はそう思って尚史に食いついたが、隣で勇人はそっと口を開いた。
「由良さんを守ります。仕事に巻き込むつもりもありません。……由良さんと結婚するに当たって、退社してもっと家庭を大事にできる仕事に変えることも考えています」
 由良は驚いて勇人を振り向いた。周りから仕事一筋と聞いてきた勇人が、自ら仕事を変えると言い出すとは思っていなかった。
「勇人さん、そんなことする必要なんてないです。勇人さんは、今のままで……!」
 由良が慌てて言葉をかけると、勇人は静かに由良に告げた。
「僕はドクターであることに誇りを持っていますが、ドクターの仕事はどんな形でもできる。由良さんと一緒に歩いていけるなら、僕はその選択だって誇ってみせます」
 由良はその決意に、少し目がにじんだ。由良は頑なに自分の仕事を守ることばかり考えていたのに、彼は由良のために仕事を変えてもいいと言う。
 ……私、自分のことしか考えていなかった。それは由良の今までを、大きく見直してくれた。
 これだけの思いをもらったなら、自分だって変えることはできるんじゃないかな? ふとそう考えたとき、尚史が深く息をついた。
「なかなか……いい男をみつけてきたじゃないか、由良」
 由良は尚史の口調が和らいだのを感じ取った。勇人もそれに気づいたようで、じっと尚史を見返して問う。
「では、認めてくださいますか」
 尚史がもどかしげに顔を歪めながら、言葉を選ぶ気配があった。
 一瞬の緊張の後、尚史が口を開こうとしたときだった。
 玄関から女性と子どもの足音が聞こえた。義姉と甥が戻ってきたようだった。
 尚史は途端に夫と父親としての顔になって、頬を緩めて振り向く。
「おかえり。少し早かったが、今……」
 尚史がおそらく勇人のことを紹介しようとした、その一呼吸の後。
「……北条先生だったんですか」
 リビングに現れた義姉が、青い顔をして立ち止まった。
「穂波?」
 尚史がいぶかしげに問いかけると、義姉は言いづらそうに夫に告げる。
「あなた、覚えているでしょう? 五年前、列車事故で職に当たった……救命医の、北条先生」
「……あのときの」
 それを聞いて尚史も顔色を変える。
 尚史は奇妙に長い沈黙の後、突き放すように勇人を見て言った。
「やはり妹との仲を認めるわけにはいかない」
 由良はなぜと問おうとした。けれど尚史は固い決意をもって勇人を責め立てた。
「……実の妹を見殺しにしたあなただ。家族にはできない」
 隣の勇人は目を伏せて、その拒絶の言葉を聞いていた。
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