まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中
18 衝突と本音
まもなく由良と勇人は社員寮を出て、二人で暮らし始めた。
由良は新しい住所を尚史に伝えなかった。尚史の家を勇人と訪ねてから、尚史は何度か由良の携帯電話に連絡をよこしたが、由良は通話に出ることはなかった。
そんな状態なら、縁談のことも自然消滅するだろう。けれど一度、その相手である上川にはきちんと自分から断らなければ。そう由良が思っていた頃、職場で季節外れの送別会が開かれた。
由良の会社は医療従事者が出向してくることが多く、期間を終えて病院に戻る社員も多い。その日も出向元の病院へ戻る医療事務の女性の送別会で、医療部の社員たちがビアガーデンに集まって別れを惜しんだ。
「元気でね。体に気を付けて」
「早かったよなぁ。もう二年か」
季節はもう夏の盛りで、貴重な夕涼みの時刻をみんなで共有する。
「あそこの先生は気難しいけどいい先生だよ」
「婦人科の設備は古いけどね。今度先生が開業するって話もある」
医療部員たちの集まりだから、勇人は出席していなかった。けれど飛び交う医療業界の話題を聞きながら、ふと由良は勇人のことに思いを寄せる。
仕事一筋だったという勇人。若くして最前線で救命医も務めていた勇人は、医務室のドクターの自分に満足しているだろうか。
一緒に暮らしていると、日々医療分野の情報に目を通して、学び続けている勇人を目にする。そんな彼は、本当は病院に戻りたいんじゃないかと思うことがある。
自分に何かできることはないかな。たとえば彼の未来を後押しできるようなことは……。
別れる女性と親しかったこともあって、由良は送別会の最後まで残っていた。二次会どうする?と訊かれて、帰りが遅いと勇人が心配すると思い至る。
由良が断ろうとしたとき、ふいに隣の席に座った男性がいた。
「由良さん、お願い。少しだけ俺に付き合って」
複雑そうな顔で由良を見やった彼に、由良はこくんと息を呑む。
上川さん、とつぶやくと、彼はビアガーデンの奥を指さした。由良は一息分だけ迷ったけれど、席を立って上川の後に続いた。
オープンスペースから離れた隅の席は、観葉植物に挟まれていることもあってひっそりとしていた。上川は先にその席に着くと、由良も隣に腰を下ろす。
しばらく二人の間には沈黙があった。由良と勇人が付き合っているのは周りに伝わっていたが、由良から上川にはっきりと宣言したわけではなかった。
「ナースマンの俺じゃ、頼りない?」
唐突に上川が言葉を切り出す。由良は一瞬何を言われたかわからなかったが、慌てて言葉を返した。
「そういうことじゃないです! 上川さんはとても頼りになって、尊敬してます」
「お兄さんに聞いたよ。例の列車事故の過去で、北条先生との仲を反対されてるって」
上川は酒のせいかひどく不機嫌そうに言葉を続ける。
「逃げるみたいに引っ越して、お兄さんとも連絡を切って。そんな関係、由良さんが苦しいだけだろ? 俺が相手だったら、俺の家族も由良さんのお兄さんにも、みんなに祝福されるのに」
由良は確かに尚史と連絡を絶つのがつらかった。長い間二人だけの家族だったのだ。由良が子どもの頃からずっと心配して、庇ってくれた兄を、本心から嫌う日が来るとも思えなかった。
「由良さん、仕事がすべてじゃないだろ? 家族に囲まれて、体を労わってゆったり過ごすのだって幸せだろ? 俺は恋人としては物足りないかもしれないけど、いい夫といいパパにはなってみせるよ」
酔っているからか、上川が本心では由良に仕事をやめさせようとしているのが聞いて取れた。でも今の由良にとって一番大事なのは、仕事ではなくなっていた。
由良は首を横に振ってきっぱりと言う。
「上川さんは、素敵な人です。……でも、私は勇人さんが好きなんです」
上川が眉を寄せて由良を見る。由良はそんな上川を見返して、思いを伝えた。
「勇人さんの優しさと、芯の強さが好きです。ドクターとしての誇り高さと、私の未来ごと包み込んでくれる温かさも。私は彼と歩んでいきたい」
由良は微笑んで、ずっと考え続けていた決意を口にしようとする。
「もし……彼の未来に私が後押しできるなら。私は……仕事だって」
由良が迷いながらも、言葉を形にしようとしたときだった。
「俺だって、ずっと由良さんを見てきた……のに……」
ふいに上川の体が傾いて、床に倒れこむ。
由良はびっくりして立ち上がって、上川に駆け寄った。
「上川さん!? どうしたんですか!」
上川の顔色は、酔って赤いのではなく、蒼白になっていた。呼びかけてもうめくだけで、ぐったりと手足を投げ出している。
由良は助けを求めようと辺りを見回したが、気が付けば同僚たちは二次会に行ってしまっていた。異変に気付いた高校生らしいアルバイトが一人、慌てた様子で駆け寄ってくる。
どうしよう、どうしよう。由良も青ざめて、アルバイトと二人で途方に暮れたときだった。
「由良さん? ……上川君?」
由良を迎えに来たらしい私服姿の勇人が、目を険しくして上川を見た。
由良は新しい住所を尚史に伝えなかった。尚史の家を勇人と訪ねてから、尚史は何度か由良の携帯電話に連絡をよこしたが、由良は通話に出ることはなかった。
そんな状態なら、縁談のことも自然消滅するだろう。けれど一度、その相手である上川にはきちんと自分から断らなければ。そう由良が思っていた頃、職場で季節外れの送別会が開かれた。
由良の会社は医療従事者が出向してくることが多く、期間を終えて病院に戻る社員も多い。その日も出向元の病院へ戻る医療事務の女性の送別会で、医療部の社員たちがビアガーデンに集まって別れを惜しんだ。
「元気でね。体に気を付けて」
「早かったよなぁ。もう二年か」
季節はもう夏の盛りで、貴重な夕涼みの時刻をみんなで共有する。
「あそこの先生は気難しいけどいい先生だよ」
「婦人科の設備は古いけどね。今度先生が開業するって話もある」
医療部員たちの集まりだから、勇人は出席していなかった。けれど飛び交う医療業界の話題を聞きながら、ふと由良は勇人のことに思いを寄せる。
仕事一筋だったという勇人。若くして最前線で救命医も務めていた勇人は、医務室のドクターの自分に満足しているだろうか。
一緒に暮らしていると、日々医療分野の情報に目を通して、学び続けている勇人を目にする。そんな彼は、本当は病院に戻りたいんじゃないかと思うことがある。
自分に何かできることはないかな。たとえば彼の未来を後押しできるようなことは……。
別れる女性と親しかったこともあって、由良は送別会の最後まで残っていた。二次会どうする?と訊かれて、帰りが遅いと勇人が心配すると思い至る。
由良が断ろうとしたとき、ふいに隣の席に座った男性がいた。
「由良さん、お願い。少しだけ俺に付き合って」
複雑そうな顔で由良を見やった彼に、由良はこくんと息を呑む。
上川さん、とつぶやくと、彼はビアガーデンの奥を指さした。由良は一息分だけ迷ったけれど、席を立って上川の後に続いた。
オープンスペースから離れた隅の席は、観葉植物に挟まれていることもあってひっそりとしていた。上川は先にその席に着くと、由良も隣に腰を下ろす。
しばらく二人の間には沈黙があった。由良と勇人が付き合っているのは周りに伝わっていたが、由良から上川にはっきりと宣言したわけではなかった。
「ナースマンの俺じゃ、頼りない?」
唐突に上川が言葉を切り出す。由良は一瞬何を言われたかわからなかったが、慌てて言葉を返した。
「そういうことじゃないです! 上川さんはとても頼りになって、尊敬してます」
「お兄さんに聞いたよ。例の列車事故の過去で、北条先生との仲を反対されてるって」
上川は酒のせいかひどく不機嫌そうに言葉を続ける。
「逃げるみたいに引っ越して、お兄さんとも連絡を切って。そんな関係、由良さんが苦しいだけだろ? 俺が相手だったら、俺の家族も由良さんのお兄さんにも、みんなに祝福されるのに」
由良は確かに尚史と連絡を絶つのがつらかった。長い間二人だけの家族だったのだ。由良が子どもの頃からずっと心配して、庇ってくれた兄を、本心から嫌う日が来るとも思えなかった。
「由良さん、仕事がすべてじゃないだろ? 家族に囲まれて、体を労わってゆったり過ごすのだって幸せだろ? 俺は恋人としては物足りないかもしれないけど、いい夫といいパパにはなってみせるよ」
酔っているからか、上川が本心では由良に仕事をやめさせようとしているのが聞いて取れた。でも今の由良にとって一番大事なのは、仕事ではなくなっていた。
由良は首を横に振ってきっぱりと言う。
「上川さんは、素敵な人です。……でも、私は勇人さんが好きなんです」
上川が眉を寄せて由良を見る。由良はそんな上川を見返して、思いを伝えた。
「勇人さんの優しさと、芯の強さが好きです。ドクターとしての誇り高さと、私の未来ごと包み込んでくれる温かさも。私は彼と歩んでいきたい」
由良は微笑んで、ずっと考え続けていた決意を口にしようとする。
「もし……彼の未来に私が後押しできるなら。私は……仕事だって」
由良が迷いながらも、言葉を形にしようとしたときだった。
「俺だって、ずっと由良さんを見てきた……のに……」
ふいに上川の体が傾いて、床に倒れこむ。
由良はびっくりして立ち上がって、上川に駆け寄った。
「上川さん!? どうしたんですか!」
上川の顔色は、酔って赤いのではなく、蒼白になっていた。呼びかけてもうめくだけで、ぐったりと手足を投げ出している。
由良は助けを求めようと辺りを見回したが、気が付けば同僚たちは二次会に行ってしまっていた。異変に気付いた高校生らしいアルバイトが一人、慌てた様子で駆け寄ってくる。
どうしよう、どうしよう。由良も青ざめて、アルバイトと二人で途方に暮れたときだった。
「由良さん? ……上川君?」
由良を迎えに来たらしい私服姿の勇人が、目を険しくして上川を見た。